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【求道】平成26年6月掲載。霊山本廟長のエッセイ

投稿日:2018年1月30日 更新日:

こんばんは。 円龍寺若坊のかっけいです。

この円龍寺サイトを初めて15か月ほど経過しました。

振り返りますとあっという間の出来事のように感じますが、継続してブログをすることによってご門徒の方々から「若坊さんはブログをされてるんですねえ」とお声がかかることもあります。

有難いなあと思う反面、拙い内容で申し訳ないなあと感じます。

そこで父である住職に「ブログに何か寄稿してくれませんか」とお願いしますと、初代霊山本廟長の役職を務めていたときに毎月『本山興正寺霊山本廟寺報・求道』を発行していたので、その文章を掲載してもいいですよと許可を頂きました。

そこで今月から定期的に住職が書いた求道を紹介していきます。第一回目は就任2か月目の文章です。


平成26年6月号の求道。

青葉が目に眩しい季節です。霊山本廟の早春を告げた梅、そして、春を謳歌した桜の花が散ると、ツツジ、牡丹、サツキと、我あとに続かんとばかりに、色とりどりの花を咲かせて、参詣者の心を和ませてくれます。

 

まさに、命を燃やす自然の営みに、感じ入るわけですが、一方春は、葉の入れ替わる時期でもあり、新しい芽が吹くと言うことは、古い葉が落ちていくことを意味し、一本の木にも、命の循環があるわけです。

 

ふと生い茂る木々に目をやると、一本の枝の中にも、葉を広げようとする若葉、太陽を一身に受けようとする大葉と、命の息吹を感じます。なおも目を凝らすと、わくら葉があります。虫に食われたのか、病気なのか、はたまた春風に痛んだのでしょうか。

 

わくら葉は、病葉と書きます。夏の季語に使われますが、病気や虫のために変色し、枯れた葉のことをいいます。その語源については不詳ですが、「別れる葉」を当てる人もいます。また、「まれに」とか「偶然に」といった意味、すぐに散りゆく葉ですから、「哀れ」とか「儚さ」の対象にもなります。

 

青々と繁茂する葉の中の病葉。これを心の眼で見ると、浮かぶのは一点の静物画です。カラヴァッジョの「果物籠」は、美の一瞬を切り取ろうとした静物画の中に、枯れ朽ちる葉の徹底した現実描写で描きながら、画家本人の内面投影でもある故に、私の心を掴んで離しません。それは、おもわず手に取りたくなるほどの果物の持つ瑞々しさの中に、朽ちていく葉の質感まで感じ取れるリアリズム。私はそれに、画家の内なる憂愁の世界を感じ、心が揺さぶられるのです。

カラヴァッジョの「果物籠」。求道の挿絵

カラヴァッジョの「果物籠」

誰しも、健康、長寿、物の豊かさなどの幸せを求めますが、その中に儚き病葉を抱えています。人は、自己に内在する憂愁を、凝視するのをためらい、享楽に走るのに対して、木々の病葉は、全ての命の一部として、それとて愛おしむ青葉と共に、命の循環の中で立派に生きています。

 

今、悲しき別れを抱いたお参りの方に接し、初夏を思わせるこの霊山の地で、匂い立つような草木を眺めつつ、人生を有り難く沁み〲いただいています。

合掌


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さいごに。若坊から一言。

今回、住職が霊山本廟寺報の「求道」に載せた文章を紹介しました。

しかしどうでしょうか。

紙面で読む求道と比べて、読み手の心に響きにくい・共感にしにくいように感じます。

やはり画面で見るのと紙で読むのでは勝手が違ってくるのでしょうか?それは単に縦読み・横読みの違いだけではないのかもしれません。

とりあえず評判が良ければ、今後定期的に掲載していく予定です。

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