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「恩讐の彼方に」霊山本廟長(10)【平成27年3月求道】

早春を告げる梅便りが聞こえてくると、つい郷里の自坊に自生するフキノトウを思い出します。ここ霊山本廟の留守職を任せられた限り、ゆっくりと田舎で過ごす暇などはありませんが、ならば霊山本廟でも山菜採りが出来ないものかと周辺を見渡せば、やたらお掃除箇所ばかりが目に付き、仏さまはきちんとお仕事の方を用意してくれていました。どうやら悠長に春を味わう余裕などはなさそうです。ただ、それでも日差しの中に温もりを感じるようになると、啓蟄とは言い得て妙で、自然と背伸びをして気持ちも緩みそうになります。

 

さて、歳を重ねるにしたがって昔を懐かしむのは人の世の常ですが、私自身にとって、色あせることなく心に留められた思い出や感動は、慰めにも似た追憶の喜びのひと時をもたらしてくれます。そして悲しくて辛かった出来事でさえも、懐旧の涙を流す一齣(ひとこま)の中に、たぐいない人生の彩りとしていただけるのです。

 

中学生の頃、父の書斎の本棚にある一冊の本に目が止まったのを憶えています。手に取り少しめくると、歴史的仮名遣いではありませんが近代文学特有の読みづらさから、本棚に戻そうかと思いながらも、題名のもつ不思議な響きの魅力に惹き込まれてしまいました。その本とは「恩讐の彼方に」という短編小説であり、郷土出身の著名な作家である菊池寛の出世作品のひとつです。

 

「表裏」、「明暗」、「有無」、「虚実」、「黒白」等々、反対の意味を持つ熟語は沢山あり、それこそ枚挙にいとまがありません。その中でも人間存在に係る言葉には、何かしら悲哀とともに生きるが故の苦悩そのものの響きを感じます。「生死」、「善悪」、「苦楽」、「愛憎」等々は、人としての内包する根源的な問題として、避けては通れぬ悲しい響きなのです。「恩讐の彼方に」の「恩」は、情けとか慈しみを表します。反対に「讐」は、かたき、あだなどを意味し、相反する人間の感情表現としての新鮮さを感じます。菊池寛自身が「彼方に」描いてみせた世界とは、人の持つ優しさと瞋恚という怒りとの相克を、決してお涙頂戴ではなく、身も心もやり場のない葛藤、それでいて、人が立ち帰るべき姿にあったのではないのでしょうか。

 

内容について詳しく紹介する余裕は紙面上ありませんが、歴史上に実在した「青の洞門」を基づいて書かれているとはいえ、おそらくこれが男女の痴情のもつれ云々を全面に絡ませたりすると、浄瑠璃の題材の域をでなかったでありましょう。改めて読み直すと、それは人間の犯さざる罪業という大きな巨岩に、ノミを持ち槌を振るう姿を通して、逆に人の恨みという哀れさもまた罪業に他ならぬことを暗示しているのだと思います。

 

マルウォルドロン作曲の『Left Alone』,1959年作曲

マルウォルドロンの『Left Alone』

今月も、心に残る名曲を聴きながら。・・先立たれた方を見送り、ひとり残された寂しさは、誰しもいつの日か味わうことです。マル ウォルドロンの「レフト アローン」には、残されし者の悲しみが記録されています。波乱万丈の人生という言葉だけでは足りないビリー ホリデイ作詞の歌には、私にとっても辞書を片手に訳すことさえ躊躇してしまう何かを感じます。『私の心を満たしてくれる 愛はどこなの 決して離れずにいてくれる人はどこにいるの みんな私を傷つけそれから見捨てていった 私は一人 ひとりきりなの・・・』ジャッキー マクリーンの嗚咽にも似たアルトサックスが、そして彼女に捧げた、マル ウォルドロンのピアノが、痛々しくも夢の跡を追うように、残された者のみに許された、悲しき旋律を奏でています。

合掌