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普段しないけども、真宗のお坊さんが年忌法要の法話の原稿を作ってみた。

投稿日:2017年8月20日 更新日:

こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。

お坊さんは1周忌や3回忌などの年忌法要での読経後に、お参りの方に向き直してお話をしますね。

49日法要(満中陰)やお通夜でもお話をしますね。

ためになる話ではないかもしれませんが、お坊さんはこのお仏事を通してちょっとしたことでも仏法を感じ取ってくれればなあと思っています。

自分のことを言えば、私は仏事の後の法話は基本用意しておりません。その場の雰囲気や休憩時間中の雑談内容から適当に5~10分程度のお話を読経後にしています。

しかし今回は珍しく法話の原稿を作成して年忌法事(3回忌)に臨みました。

今回は作成した法話と、なぜ私が法話の原稿を作成したのかの2点を紹介します


法話原稿を作った動機。

現在私の年齢は30弱です。

年齢的に非常に若く、まだまだ仏法のことはもちろん、人生についてもお参りに来られている人よりも未熟です。

そんな私が法事の席でお話する法話というのは、お参りの人に響きにくいところがあると思います。(いきなり30~50歳以上も年の離れた若い人が、正面にたって仏法を説いても、真剣に聞き入れられますか?)

ですから私は今まで法事の休憩時間に施主やお参りの人と話をして、どんなことに興味があるのかなあと探りを入れながら、その場の法話を考えています。

しかしです。そんな急ごしらえの法話では、お坊さんが伝えたいことも不十分にしか伝わらないですし、聞いてくださる側も要点がわかりにくく、法話というよりかはお坊さんの独り言・雑談です。

そのような思いがあった私なのですが、今回、年忌法事の導師としてお勤めをし法話をしなければならないご縁にあいました。

理由は、先代住職の姉、つまり私から言えば大伯母が亡くなられたからです。

お寺が出里なので私の父である住職が導師としてお参りに行く必要があります。そのため私が住職がお勤め予定だったご門徒さんの年忌法要に導師としてお参りしなければならなくなりました。

大伯母は数えの百一歳で亡くなりました。私が幼いころの時の思い出もあります。

この度の法事の亡くなられた方も今年で百歳です。

私が大伯母の死の知らせを受けて感じたことを、法話に変えて遺族とともに仏法を共有できればと思い、作成しました。

作成した法話の原稿。全文。テーマ『死亡』と『往生』

法話原稿を作製。

*注意事項

  • この法事のために作った法話原稿なので、その家でのお話をイメージして文字を起こし、話し口調のような書き方ですので、言葉使いに不快感を感じるかもしれません。
  • また年忌法事での法話ですので、寺院法要後の法話と違い、讃題を用いていません。
  • 予定としては長すぎない10分程度の内容、1500文字~2000文字を意識して作成しました。
  • 宗教の違い、考え方の違いあって当然ですので、今から紹介する原稿内容が内容的に正しい・間違っているというツッコミはなしです。浄土真宗のお味わいを頂くことが大切です。
  • 実際の法話では原稿通りにはお話していません。あくまで、その場でのお話をイメージして作成したことです。

ただいま俗名○○、法名□□様の▽回忌のお勤めをさしていただきました。本来ならば昨年同様に住職が前に座り、導師としてこの法座に参る予定でしたが、急遽どうしても外せない用事ができてしまいました。

それはですね。住職から言えば伯母がなくなったのです。前の住職からだと姉に当たる人です。お寺が出里ですから、どうしても葬儀に円龍寺から参らなければならないのです。

ですので今日は私が□□様のお勤めをし、少しですがお話をしたいと思います。

 

少し話しが変わりますが、今住職は伯母の葬儀に向かっています。亡くなった伯母は数えの101歳です。つい4年前に祖父の13回忌には車イスで元気に参られていました。お付きの子や孫たちも4・5人来られてました。

 

私はその伯母との記憶に残った思い出というのは少ないのですが、次のようなやり取りがあったと聞いています。保育所くらいの幼い時に将来の夢を聞かれたそうです。すると私は大工さんと答えたそうです。今の子供たちなら、男の子はサッカー選手・女の子はパティシエらしいですね。すると私は逆に伯母に「将来は何になりたいの」と夢を聞いたそうです。

 

みなさんも子や孫に質問されたらどう返事をしますか。いざその場に立つと答えられないのではないですか。60歳を過ぎて仕事を引退し、今は80歳で畑仕事をちょこちょこと。後は死んで焼かれて墓に入るだけ。お先真っ暗だ。と考えてしまうでしょう。これが私たち人間の思考回路なのですから。特に『死んだら無』『死んだら終わり』というのが近頃の風潮でもあります。

想像してみてください。お墓の中って真っ暗なんですよ。灯りがないからね。夏は熱くて冬は寒い、秋にはお墓から音が聞こえるんですよ。

 

今はテレビでも雑誌でもインターネットでも、エンディングノートや終活が流行っていますね。【終活の広告を取り出して掲げて見せる】お墓のこと、葬儀のこと、遺書、相続の計画をたてることですね。

でもですね、これらはお先真っ暗のことまでの、死んだら終わりの話なんですよ。『死亡』と表現されることなんですね。

死亡が私たちの思考回路なんですね。でもですね。南無阿弥陀仏の教えは、別の思考をここに(頭に)【自分の頭を指して】プラスしてくれるんですね。

 

浄土真宗の教え、南無阿弥陀仏のお念仏は、この私に「後のことは心配するな。任せてくれよ。」と呼びかけてくれているんですね。浄土真宗では、死んだら終わりの教えじゃないんですよ。阿弥陀さんのお浄土に間違いなく生まれさせるぞと約束されているんです。

 

冒頭の問いに戻りますが「将来、何になるの。」と尋ねられたら、「いつ、まさかの時が来て、別れることになるかもしれないけど、仏様のそばにうまれるんだよ。」「直接会うことはできなくなるけども、お仏壇に参ると、私のことも思い出してね。」と答えられるでしょう。

 

浄土真宗の教えは『死んだら終わり・そこまで』じゃないんですね。『死亡ではなくて往生』。仏様のお浄土に往って生まれるということです。

そして最後に大切なことが一つ。浄土真宗はただ阿弥陀さんのお浄土に行くんじゃないんですよ。またこちら(娑婆の世界に)に戻ってくるんですよ。

今日の□□様の法事だって同じことです。もちろん家の人が案内し、接待し、無事に勤められた仏事ではあるのですが、亡き人のご縁があり、亡き人のお呼び声があり、仏様・亡き人がこの私にこれからの歩んでいく道を教え導いてくださっているからできたんですね。

 

これがもし、死んだら終わり、死亡と言い放ち、後のもんには迷惑かけたくない・死んだらそこまでの考えでは、命のつながり・よろこび・感謝・敬いもないでしょう。

 

南無阿弥陀仏のお念仏は、死んだら終わりという私たちの思考に、往生という往って生まれて後に残された人を導くという思考をプラスしてくれるんですね。

仏事というのは先立たれたご先祖に良いところに行ってくれよと願うのではなく、仏様・ご先祖の法から、今日のご仏縁を通し、気づいてくれよ・分かってくれよといただいていく場なんですね。


それでは最後に御勧章を拝読します。


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さいごに。実際にお話をしての感想。

私が法話のために原稿を作成したのは、19歳のころ、本山で布教講座・実習をしたときくらいです。

あの時は半年ほどの準備期間があり、15分程度の布教でした。勉強中の身でもあり、また聞き手もお坊さんばかりなので、とにかく緊張してまともな話ができませんでした。

今回はご門徒さん向けに布教というよりかは、真宗の考え方、思いの共有を意識して原稿を作りました。

実際には原稿内容と外れたり、その法事の席で感じた事を話に加えたり、聞き手とのやり取りをしながらお話が進んでいったので、25分くらい時間がかかってしまいました。

長すぎるお話というのはそれほど好まれることもないので、今後は注意しなければならないところです。

ただ原稿を用意することで、落ち着いて話ができるのだと再確認しました。聞き手とのやり取りをして話が脇道にそれてもまた本筋に戻れるのは、お話をする人にとっては心強いことだと感じました。

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