こんばんは。 浄土真宗円龍寺の若坊かっけいです。
例年12月12日は自坊円龍寺にて報恩講法要が営まれています。
報恩講法要とは浄土真宗の宗祖親鸞聖人のご遺徳を偲ぶ法要なのですが、永代経法要と比べてお参りの人が少ないように感じます。一度もお寺に来られたことがない人もいるでしょう。
そんなわけで今回は雑談を交えながら平成29年度の報恩講法要を紹介していきます。
ちなみに報恩講法要の進行は去年のブログ内容(円龍寺の平成28年報恩講法要を報告。無事に勤修できました)と非常にそっくりです。
報恩講法要前日の寺の様子。
上の写真は報恩講法要の前日の本堂内の様子です。
参拝席側には椅子を並べています。最近のお寺ではどこもかしこもお参りの人のために椅子を用意することが多くなっています。
円龍寺でも秋の永代経法要から新たに椅子を用意しており、今回の法座ではおよそ60脚配置しておきました。(夏と比べて本堂用の大型のストーブを設置しいますので、真っすぐと椅子が並べられないのがちょっと残念でした。熱いからそばに置けないのよね)
さて次は内陣の様子です。(内陣とは仏様・仏像周辺の空間のことです。)
浄土真宗の寺院では報恩講をお勤めするときだけに掛けられる掛け軸があります。これはお寺に行かないとおそらく見ることがないでしょう。
その名も「四幅のご影像(しふくのごえいぞう)」です。
派が変われば「四幅の御絵伝(ごえでん)」とも表現するでしょう。(本願寺はこちらのネーミングでしょうからこっちの方が有名かもしれません。
この掛け軸には親鸞聖人の一生涯が表されています。ですので親鸞聖人を偲ぶ報恩講の時だけ用意するのです。
普段は次のような箱にしまっております。
もう一点だけ報恩講に向けて大切な用意があります。それは導師が登壇する壇を用意することです。
上の写真は導師といわれる法要儀式を進める人が座るところの様子です。
名称は礼盤(らいばん)と呼ばれ、上に上がることを登礼盤(とうらいばん)、降りることを降礼盤(こうらいばん)と呼びます。
どの法要でもこの礼盤を用意していいのですが、円龍寺の場合はメリハリをつけるために宗祖の報恩講法要のときのみ用意して導師に登壇していただいてます。(またさり気無いですが、円龍寺では報恩講法要の時だけ高卓の打敷の下に水引を敷いています。)
報恩講法要当日の様子。
今年2017年12月12日の法要日はかなり寒かったです。最高気温が5度くらいだったのかな。
前日には瞬間最大風速18メートルといった台風並みの強風が吹き荒れており、この日もなかなか強い風でした。でも雪がほんの少し舞っただけでお天気に恵まれました。
法要の読経開始は昼の2時からなのですが、お寺では朝から報恩講法要に向けた準備があります。
例えば朝の8時前に山門前のポールに仏旗(ぶっき)を掲げました。
仏旗とは全世界の仏教徒のシンボルとなる印として世界仏教徒連盟が定めたものです。お寺で法要などの仏教イベントがある時にはこの旗が掲げられるのです。(仏旗についても以前紹介しました。「お寺で法要がある日の目印は何?仏旗と垂れ幕に注目を(2017年9月15日記)」
続けてお寺の梵鐘(ぼんしょう)を撞きならしました。
梵鐘とは集会鐘(しゅうえしょう)とも呼ばれ、法要儀式を案内するための役割があります。
法要日の朝にまず鳴らし、今日お寺で法要があるよ~とお知らせし、法要開始一時間前にもう一度鳴らしてお知らせします。
続けてお仏飯(おぶっぱん)です。
お仏飯とは仏さまにお供えする炊き上げたお米のことです。
さらに朱蝋燭(しゅろうそく)、つまり赤色の蝋燭を用意します。
浄土真宗では必ずと言っていいほど赤い蝋燭をお飾りします。お寺の法要でも、家でのお仏壇の報恩講でもね。
で用意できたお飾り(荘厳)がこちら。
上の写真が内陣正面に位置する阿弥陀仏像の前の様子。
そして今回の主役となる親鸞聖人の像の前、御開山(ごかいさん)前のお飾りの様子です。
写真ではわかりにくいですが、報恩講法要の時は3具足から5具足にお飾りのボリュームがアップします。
法要当日の流れ・進行。
朝9時前にお寺の周囲の人がお寺に集まり食事の準備をします。
この集まりを講中(こうじゅ)といい、地元のお寺での行事を支えてくださっている人です。
そしてこの食事のことをお斎(おとき)と呼びます。昔はどのお寺も肉や魚を使わない精進料理だったのですが、現在では少し違ってきています。自坊円龍寺でも今ではうどんとおにぎりに変わっています。
お寺に来られた人はまず本堂に参りお焼香をしていただきます。そして続けてお寺の庫裏(くり)にてお食事の召し上がっていただきます。もちろん強制ではないのですが、最近では食べずに帰られる人が多い印象で少し残念です。
そして2時から本堂にて読経が始まります。
今年は私が導師として登礼盤に登壇しましたので写真はありませんが、喚鐘(かんしょう)という本堂の縁に設置された小型の鐘が鳴ってお坊さんが順次堂内に入っていきます。
今回のお勤めは正信偈でした。報恩講ではこれが多いですね。親鸞聖人が書かれた偈文ですから。
お勤めが終わってから続いて布教使の先生のお話です。
お寺の法要ではお焼香して読経するだけで終わりではありません。仏法を聞いていく場でもあります。
布教使の先生は布教に長けた人でありまた檀那寺のお坊さんとも違う人なので、いつもとは違った雰囲気のお話が聞けるご縁でもあります。
お話を聞かずに帰る人はもったいないなあと感じるのですが、現実にはお話の時には帰っている人が非常に多いんですよ。
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さいごに。お坊さんが寺での報恩講法要で感じること。
(字数が2000文字を越えているので簡潔に紹介します。報恩講で感じたことはまた日を改めて詳しく書こうと思います。)
報恩講法要に限らずお寺での法要にお参りする人がかなり減ってきた印象です。
これは私の父から聞いた話ですが、いまから30年ほど前はもっとお参りの人が多かったようです。
どれほどかといえば、本堂の中を移動するのに「ごめんやっしゃ」と前を失礼するように声を掛けないといけなかったのが、今では3分の1程度スカスカです。(本山での750回忌御正忌法要も少なかったです。700回忌では本堂縁にあふれてのお参り、650回忌ではお寺の境内からあふれ出るほどのお参りだったのですが)
布教使のお話の時には50名程度しか残っていません。椅子席を60用意したのですが空席があります。お寺の駐車場を拡張してもお参りは増えません。お参りに来ない人はどうしたって理由をつけて来ないものです。
お参りに来ない・参加しない理由はいろいろあるでしょうが、例えば「楽しみのテレビ化・多様化」「飽食の時代」「団塊の世代」などが挙げられるでしょう。(説明するとまだまだ字数が増えるので改めて書きます。)
簡単に言えばお寺に来なくても単純な楽しみが世の中にあふれていますし、物のありがたみを感じにくくなっているのです。そしてお寺に参る習慣、仏さまにお参りする習慣が親から子へと相続できていないことです。
お寺の仏教行事がただのめんどくさい行事にしか感じられず、ただ仕方なくお金を収めに行っているだけの感覚の人もひょっとしたらいるでしょう。
もしもそのように誤解をされていれば非常に残念です。