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讃岐の一豪族。金倉城主、金倉顕忠とは何者か。

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こんばんは。  かっけいです。

私の住んでいる所は香川県丸亀市の金倉町というところです。

ここ金倉にはかつて金倉城というお城があり、金倉顕忠という人が治めていました。

この顕忠の弟の顕久という人が円龍寺を建立したとされ、私が24代目の子孫とされています。

金倉顕忠という人物がどんな人物だったのか調べてみたいと思います。

 


金倉顕忠の生きた時代

金倉顕忠の生きた時代は室町時代の終わりごろ、戦国時代という時代でした。

ここ讃岐の国でも数多くの戦国武将がいたとされます。

その中の一人が金倉顕忠と言われている人です。

讃岐を治めていた有力武将たち

当時の香川ではそれまでの有力武将であった細川氏の力が衰えていき、家臣の三好実休が実権をにぎるようになり、阿波の国(今の徳島)を支配するようになったとされます。その三好実休が讃岐(今の香川)も勢力下に置こうとして、今の高松より東の方を治めていた安富盛方・寒川政国を味方につけ、また高松周辺を治めていた香西元政も一時的に従わせたとされています。

それに対抗したのが、今の多度津付近を治めていた香川之景が西讃三郡の武将たちであったとされます。

この時の大きな合戦が永禄一年(一五五八)の善通寺合戦で、三好実休が阿波・淡路の兵八千余りと、那珂郡以東のほとんどの武将を従わせた総計一万八千もの兵を率いて善通寺を本陣として、那珂郡と多度郡の間に布陣した。

対して香川氏側は西讃三郡の武将たちを率いて、天霧城に本陣を置い。

この合戦は和平を協議することによって和解し、本格的な戦闘にはならなかった。

しかしこの結果、讃岐の国は三好氏の支配下になったそうである。

                  『南海通記』より参考

金倉氏のはどこに属していたのか。

当時、鶏足・那珂を治めていた奈良氏に属していたといわれています。

金倉顕忠は那珂郡の奈良氏領の代官をつとめていたとされ、このときは奈良氏は本領のある畿内にいたとされています。

現に円龍寺の寺紋は奈良氏の家紋と非常に酷似しています。

円龍寺の寺紋

円龍寺の寺紋

金倉顕忠は誰と戦ったのか。

金倉顕忠は那珂郡を治めていたのですが、那珂郡のすぐ西側には先ほど三好実休と戦った香川氏がいました。

周辺武将の新目・本目・山脇の諸氏は香川氏に服属したが、金倉顕忠はそれに従わなかったとされます。

金倉合戦により金倉顕忠、討たれる

金倉顕忠が香川氏に従わなかったため、香川氏は千余人をさしむけ、また高松周辺の香西氏の援軍の羽床・福家・滝宮氏の軍勢を加えて、挟み撃ちにしたとされる。このとき金倉氏の兵は500余りとされています。

これ以降、奈良氏は讃岐の領地を失い、香川氏が那珂郡を支配下にした。

                       『南海通記』より参考

 

金倉顕忠はそもそも誰なのか

金倉氏について具体的な資料が存在していないとされています。

ただ、金倉顕忠と同一人物と考えられている「中津為忠」については数点資料が残っています。

その一つを参考にしますと、

下金倉村川東ニアリ、鬼屋敷トイヘリ、延寶年間、闢テ田畝トナセリ、相傳フ六孫王経基ノ五男、下野守満快二十一世ノ孫、三郎左衛門為景、此地二居テ、金倉柞原等ヲ領セリ、其子為忠将監ト稱ス、武力人二絶タリ。自其勇ヲ頼ミ、驕奢限リナシ、人呼ンデ鬼中津トイヘリ、香川信景ト善カラズ、天正三年信景、香西伊賀守、福家七郎、滝宮豊後守、羽床伊豆守ト相謀リ、討テ是ヲ滅セリ。

                      『西讃府志』

これを簡単に訳しますと、

下金倉の川の東側に鬼屋敷というところがあったよ。

でも延寶年間(1673~1681)に田畑になったみたい。

源経基(~961)の五男である源満快から二十一代後の為景という人がこの地に居たみたい。

金倉と柞原を領地としていて、子供に為忠という人がいるよ。

その人が香川氏と仲が悪くて天正三年(1575)に滅ぼされたようだよ。

 

香川信景は香川之景と同一人物で、天正四年(1576)に織田信長に属したときに信の一字を貰ったんですね。

 

円龍寺の寺伝では、この鬼屋敷が金倉城のこととされていますが、どこにあったかは分かっていません。現在の金倉氏の円龍寺は顕忠の弟である総左衛門顕久が剃髪し、建立した寺とされています。香川で金倉の姓はこの円龍寺と隣の西教寺だけです。西教寺は顕久が兄を弔うために建てたお寺と言われています。

円龍寺には金倉家代々の五輪墓があります。

 

 

さいごに

これらの資料は丸亀市立図書館に蔵書されています善通寺市史を参考にして調べました。

しかし寺伝で伝えれている通りのことしか書かれておらず、たいして参考になりませんでした。

先祖に六孫王経基(源経基)だと言われても全く信憑性がありません。

その五男の源満快も信濃の国ですから、香川県と相当場所が違います。

 

ただ、その子供の3人のうち2人(忠隆・忠国)が近江の国と摂津の国に行っているので、そこから奈良氏が属していた京の細川氏と関係がないと言えないことも思えるけどもありえないですよね。ただの想像ですし、ここからおよそ20代も後の子孫のことになるからあやしいだけですね。

 

結局新たに分かったことはなく、奈良氏の家臣である金倉城主の金倉氏はこの金倉の地で香川之景に敗れたことを確認しただけでした。

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