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献血のこころ。献血の言葉は仏教にも関係ありそう

投稿日:2016年10月26日 更新日:

浄土真宗お坊さんのかっけいです。

今日は近くの丸亀市役所で献血バスが来ていましたので、3年ぶりにはなりますが献血に参加してきました。

私と同じような年代の若者の姿は見られませんでしたが、市役所の場所柄か献血者は多くいたように感じました。

実際に聞きましたら、私の受付の申し込み番号は89番目だったそうです。

献血と仏教の関連性について考えてみました。


献血とはどういった意味のある言葉なのか

献血車の写真

献血車の中は見た目以上に中は広い 

献血

健康な人が自分の血液を他人の輸血用に無料で提供すること。供血。
語誌 近代の科学的輸血による治療法が、日本に入ってきたのは大正八年(一九一九)。第2次世界大戦後、「血液銀行」ができて血液を提供するように呼びかけたが、その時は「供血」が使われていた。「献血」が、一般に広く用いられるようになったのは、昭和三五年(一九六〇)以降。

日本国語大辞典 第二版

献血とは健康な人が自分の血液を無料で提供することなんですね。

実際に私も10回以上献血をしてきましたが、一度も料金を頂いたことはないですね。もちろん私以外の人たちもお金を貰って献血している人はいないはずです。

しかし、昔は違ったそうです。

民間の商業血液銀行があった1950年代では、売血というのがあったそうです。文字の通り自分の血液を売っていたんですね。

血液の輸血という生命の維持、いのちといのちのつながりをお金による提供にしてしまったのはやはり問題だったようです。良質な血液が提供されない。無理な売血による供血者の健康面の問題もあり、1964年から有償での採血が禁止になったそうです。

「献」という言葉を選んだのはすごいね

仏様のお飾りの際には「献灯・献花・献香・献供」という言葉が浄土真宗にあります。すべて「献」の文字がありますね。

献という言葉には祭礼で供物をささげるという意味の他に、さしあげるという意味もあります。さしあげるという言葉は「与える・やる」の謙譲語で、相手を敬うという意味ですね。

つまり献灯・献花・献香・献供という言葉には、仏様への敬いの気持ちがお飾りの中であるということですね。

では献血ではどうでしょうか。献という言葉によると、血を差し上げていることですね。つまり輸血される人に対して、敬いの気持ちを持って血を採血してもらっているんですね。

どうですかね。私たちはそういう気持ちで献血できているでしょうか。どちらかというと、してやっているんだという気持ちで献血していないですか。

献血は布施のこころに似ている気がする

少し見方を変えてみましょうか。

私は献血とは仏教でいう布施行に近いものがあるように感じました。

布施という行為は3つの要素から成り立ちますね。

施しをする人、施しを受ける人、施されるもの、この3つがなければ布施は成り立ちませんね。これを仏教では三輪清浄という言葉を用います。

簡単に言いますと「施しをする人は見返りを期待しない」・「施すものに対してごちゃごちゃ言わない」・「受け取る人は多い少ない、悪い良いといった欲望にとらわれない」ということです。

もっと簡単に言うと、布施をする側・される側には上下関係はないということですね。

例えばですね、お寺さんが各ご家庭にお参りに行きます。僧侶はお勤めをし、法を説き法施をします。すると法施を頂いた人は財施をお返ししますね。

この両者の布施には相手を哀れんでや、下に見てでの布施はないはずですね。ともに相手を敬いともに仏法を共有いてしいく姿がここにはあります。

話を戻しますと献血には相手を思いやる敬いの気持ちがあると私は感じました。

布施の話に置き換えると、献血をする人は輸血を必要とする人に血を差し上げてさせてもらっているということです。

では輸血を必要とする人は献血をした人に何を差し上げたのでしょうか。

それは献血を差していただく機会を与えているということではないでしょうか。

献血をしている人は、たまたま現在健康な状態であるだけですね。

人間ちょっとしたことで、怪我をし、病気になり、人のお世話にならないといけません。しかし健康であるとなかなか病気になった自分の姿を想像することは難しいものです。

私は血が抜かれていく感覚が非常に苦手です。気持ち悪いんですね。でも、気持ち悪いという気持ちの他に、ああ有難いなあという気持ちも出てくるんですね。普段何気なく生きている私ですけども、血が抜かれていると私は生きていたんだなあという気持ちになります。そのような有難いご縁を頂けたのが、献血というものです。

 

さいごに。献血のありがたさ

私はもう一つ献血をして感じたことがあります。

それは採血する血液の量が決まっているんですね。これは非常に素晴らしいことだと思います。

お布施をするときによくありがちなのが、どのくらいの量(金額)・程度をするのか非常に悩まれることです。

しかし全血献血では200ml、もしくは400mlと献血する量が決まっています。たいていは400mlをお願いされると思いますが、献血にはこの2種類しかないんですね。つまり採血量に悩む必要がないんですね。

もしも自由に採血量が決められるなら、私は少なめの250ml。私は400ml。彼が400mlするなら私は450。それなら私は500と、人との比較になってしまうんですね。

しかし採血量が決められているということはお互いが平等だということです。お布施だと世間体であったり、金銭面での関係、さまざまな要因で、布施の金額を決めたりしますよね。でもそれだと、先ほど説明した、三輪清浄からは程遠くなってしまいますね。少なかったらケチしたような気持ちになりますし、多すぎたら損した気持ちになります。人ってそんなもんではないでしょうか。

しかし血液だとそういうわけにはいきません。血液は私たちの命を保つ大切なものです。多すぎても少なすぎても、採血する側、輸血する側にひずみができてしまいます。比べることがないからこそ、純粋にいのちのつながりが尊重されるのではないでしょうか。

ここ数年色々な用事に追われ、献血の案内のはがきが届いても行けないことが多かったです。

お寺参りも似たようなことだと思います。私たちは普段の生活に追われてなかなか檀那寺から案内状を頂いたとしてもお寺に出向くことはないのではないでしょうか。しかし普段の日常とは異なった体験をすることも大切な機会ではないでしょうか。

特にお寺というのは、今生きている私たちに役立たなければ意味がありません。一度は万難を排してお寺にお参りしていただけたらなと思います。健康な体であるときだからこそ感じるものがあるはずです。

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