こんばんは。 僧侶のかっけいです。
お坊さんの時間の使い方にはどのようなイメージがありますか?
- ゆったりと有意義に時を過ごしていると思いますか。
- 朝早くから起きてせわしなく行動していると思いますか。
- 案外暇で暇で時間を遊ばしていると思いますか。
- 分秒の単位で時間に追われていると思いますか。
正直、どれも正解です。
お坊さんの立場によってそれぞれ時間の使い方が違いますね。
私はどちらかというと、3番と4番の時間の使い方をしています。
お参りが無くてのんびりと時間を使っていると思えば、例えば報恩講参りの時には朝から晩までみっちりとスケジュールが埋まっています。なるべく遅れないように詰めて詰めて迅速に行動しています。
それはさておき、今回のテーマはこちらです。
「時計の時間を気にしない生活をたまにはしてみたい」
もっと言えば、「時間を気にせず夢中になりたい」ということです。
時間を気にする生活に慣れてしまった現代人。
あえて現代人と大きくひとくくりにしましたが、実際問題、現代人にとって時間を気にせずに生活することは難しいのではないでしょうか。
- 例えば朝起きて会社に出勤するためには時間を確認しないといけません。
- 例えばデイサービスの迎えの車が来る時間を確認しないといけません。
- 例えば朝・昼・晩のご飯の時間を確認しないといけません。
- 例えば見たいテレビの時間を確認しないといけません。
これらのように、おてんとうさまの様子に合わせて生活していたかつてのスタイルから、現代では一つ一つの行動に「○時□分」と時間が指定されており、融通の利かない生活、時間に支配された生活になっています。
もちろん時間を気にする生活・社会は何も悪くありません。むしろ統一された時間によって行動をコントロールした方が、物事は潤滑に進み効率的であったりします。
ただ私からすると、ちょっとつまらない生き方だなあと思うことがあります。
たまには時間を気にしない場面が欲しい。
お坊さんって結構、時間を気にしているんですよ。
だってね、例えば祥月命日参りの時間を午前9時としておきますよ。
9時より早く行き過ぎても家の人は「もう来たの!?」と慌てることになりますし、遅れていくと「約束したでしょ。これだから坊主は!!」と怒られてしまいます。
ベストなのは9時ちょうどか、遅れても2分くらいですかね。
お勤め時間も気にします。
これは都会と田舎によっても異なるでしょうが、田舎のお坊さんはお勤め時間が長い傾向です。
年忌法事でも2時間程度かける時があります。
昔はもっともっと長かったのですが、今では短い方が好まれる時間になってしまいました。
お食事処に行くバスが迎えに来ていたり、仕出しが届けられていることもあるので、お坊さんは法事の終わり時間を施主より確認して何とかそれまでにお勤めが終わるように調整します。
お坊さんって時間を気にしないと駄目なんですよ。
通夜や葬儀まで時間で縛られているからね。火葬の時間がうんたらかんたらと葬儀社に言われて。
つい最近、ああしまったなと悔やんだこと。
つい最近お寺で他のお坊さんの法話を聴聞する機会がありました。
法要時にされる法話(布教)というのは、これまた時間が決まっています。
いつまでも延々としゃべられないですからね。
私が住んでいるところでは次の2パターンが多いです。
- 前半40分・10分休憩・後半40分
- 休憩なしの45分~1時間
ですので本堂で法話を聴聞するときに無意識のうちに時計を確認して、「ああ、○時□分頃に終わるんだなあ」と想像してしまうのです。
それで、つい最近の私の公開した話。
そのお堂での布教使は20代半ばと非常に若い先生でした。
亡くなられた祖父や父は有名な布教使でしたし、その方のお父さんに私は直接学んだこともあります。
話術はまだまだ荒削り未熟なように感じられたのですが、非常に惹きつけられるところがあり、いつまでも聞き続けていたい思いになりました。
しかし30分がすぎたあたりでしょうか。
私は何を思ったのか自分の腕時計の針を確認してしまったのです。(本堂内には時計はない)
すると今まで雑念なく聞き惚れていたのに。急に現実に戻ったような気分になり終わりの時間ばかりが気になってしまいました。
内容よりも時間が気になってしまったんですね。
「ああ。せっかく時間を気にせず、有難い法話を聞かさせていただいているのに、ちょっとしたことでこの純粋な心な破られてしまったのだなあ」と後悔していました。
時計を見るのが癖になっている。
時計を見る生活に慣れてしまい、時間をこまめに確認するのが癖になっています。
今でも文字を打ちながらパソコン画面右下の時間窓を時折確認しています。
時計があるのが当たり前となっているんですね。
でも先ほどの私の経験のように、時間を確認するから悩みを生んでしまうこともあるのです。(時間を気にせずにただ有難いお話を聴聞していたらよかったのです。)
実際お寺のお坊さんは、法要時にお堂の内陣外陣に出勤するときは腕時計を身に着けずにお堂に入ります。
法要儀式の途中・読経中というのは本来時間にとらわれずに勤めるものなのですから。
現代では時計を見ながら生活するのが当たり前になっています。
しかし本来、大切な時間を過ごすときは、時間を気にせずに、今目の前のことに集中して過ごすのも重要なことなのではないだろうか。
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さいごに。時計を見ることとは残り時間を知ろうとすること。
時間というのは私たちにとって、共通の絶対的な物差しになるものです。
私の15分とあなたの15分は同じ時間です。
しかし心の持ちよう、時間にとらわれているかいないかでは全く感じ方が違っているはずです。
後5分だあ・10分だあと時間にとらわれながらお話を聞いたり時間を過ごすよりも、時間を気にせずにただ目の前のお話を集中して聞くのはどちらが素晴らしいでしょうか。
時計の針を見ることは、残り時間を確認しようとする行為です。
お話や仕事の時間、テレビの時間が終わることぐらいでしたら、残り時間が分かることもいいんじゃないのと思うでしょうが、例えば人生の残り時間が後何年何月何日何秒と分かったとしましょうか。
今、目先のちょっとした事の終わりの時間を知ることぐらい大したことじゃないと言いながら、人生の残り時間が見えたら落ち着いてこれからの時を過ごせないでしょう。
私が言いたかったのはそういうことです。
今まさに大切な時間を過ごしているのに、ふと時計の針を確認したことによって終わりの時間をイメージしてしまった。
その結果、心があっち行きこっち行きとつまらない生き方になってしまったなあと。
現代では時間を気にしないと生きていけないのかもしれません。
しかし時間を気にする必要がない時もあるはずです。
そのようなときについついいつもの癖で時刻を確認することは、その大切な瞬間を失っているんじゃないのかなあと感じるところです。