こんばんは。 僧侶のかっけいです。
そろそろ2017年も終わりが来そうですね。後10日で2019年です。
昨年でしたっけね、ニュースで「除夜の鐘がうるさいんじゃ~」って報道されたのは。
お坊さんからすれば、まさかお寺の鐘の音がうるさいと騒音のように思われるとは考えもしなかったのですが、まあそんな世の中になってきたということなんでしょうね。
今回は除夜の鐘を無事に続けられることについての私の想いを書きます。
お寺が鐘を鳴らすのはなぜだろうか。
お寺にある鐘には複数種類あるのですが、今回は除夜に撞かれる梵鐘(ぼんしょう)についての話です。
次のような鐘楼(しょうろう)に吊られている大きな鐘ね。
宗派によって呼び名は変わるのですが、私の属している真宗興正派では梵鐘のことを集会鐘(しゅうえしょう)と呼びます。
つまりお寺の鐘を鳴らすのは、「今日この場所で、仏教行事があるんです~」と周りの人々にお知らせしているんですね。
これが本来の鐘の音を鳴らす理由なのですが、別の理由でもお寺の鐘は撞かれます。
そう、時鐘(じしょう)としても使われますね。
今の時代は時計を必ず持っていますし、スマートフォンや携帯電話でも時間をいつでも確認できますよね。しかし昔は屋外で時間を知る手段が乏しかったんですね。
そんな時にはお寺の鐘は時刻を告げる道具として利用されていました。
現在でも例えば開門・閉門時間に鐘を撞く寺院もありますし、修行僧がいる寺院では早朝の午前○時に決めて鳴らすこともあります。
(例えば世界文化遺産の清水寺は朝の5時に鐘の音が響きますね)
【寺院が鐘を鳴らす理由まとめ】
- 仏教的なイベントがあることをお知らせ。
- 時を告げる役目。
また浄土真宗的ではないかもしれませんが、鐘の音の響きを耳にする人は一切の苦が除かれて悟りに至る功徳をいただけるとも言われています。
お寺の鐘の音は仏教の響き。
平家物語の冒頭には鐘の音について書かれていますね。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
祇園精舎の鐘の音には「諸行無常」の響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を表している。驕り高ぶり栄華を極めている人も長く続くことはなく、まるで春の夜の夢のようにあっという間に移ろいでいく。勢いが盛んな者もやがては滅亡してしまう。ただただ風の前の塵と同じように儚いものである。
のような意味です。
また正岡子規の俳句には次の有名な歌があります。
柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺
平家物語から感じることは、お寺の鐘の音にはただ時刻を告げることであったり、法要法事があることを知らせているだけではないということです。
聞く人の心によっては、寺院から響いてくる鐘の音から人生の空しさや儚さを感じられるということです。鐘の響きが私のこころに訴えかけてきている呼び掛けのようにいただけるんですね。
また柿食えばの歌には、単に柿を食っていた中にふと法隆寺から響いてきた鐘の音を聞くことにより急に秋の季節が心に染みたんですね。
お寺の鐘の音というのは24時間いつもなり続けているわけではありません。
ふと耳に届いたとき、その音色から仏さまからの教えが感じ取ったり、人生や季節をみつめるご縁になったりもします。
除夜の鐘は騒がしいのか、それとも有難いのか。
音は聞き手の心持ちによって印象がガラリと変化します。
例えば、除夜の鐘がうるさいと苦情・クレームをいう人は「騒音・雑音」と感じているんですね。
しかし除夜の鐘がいいなあと感じている人は「風情・風物詩・有難い」といただけているんですね。
お寺の法要でもお坊さんは「賑々しくお参りいただき有難うございます。」と挨拶しますね。決して「騒々しくお参りいただき」とは言いませんよね。
除夜の鐘は確かに大きな音が周囲に鳴り響きます。
しかし除夜の鐘は一年最後の時を告げる寺院からの響きであり、今では一年の煩悩を取り除きそして新年を新たな気持ちで迎えていこうと決心する意味があります。
除夜の鐘を撞くこと・除夜の鐘の音を聞くことで、一年最後の節目を迎えられたことに感謝をするんですね。
さああなたにとって、年終わりのわずか一時間程度の鐘の音が「騒がしい」のか「有難い」のかどちらでしょうか。
「ノイズ」の反対は「静寂」。それでいいのか。
雑音・騒音を英語にすれば「noise」となります。つまり「ノイズ」ですね。
「ノイズ」の反対の言葉は「静寂」です。
静寂とは音のない波のたたないような状態・空間をさします。
しかしお寺の鐘の音が煩いと感じている人は、はたして静寂な人生であるのでしょうか。
非常に多くの人が目の前の瞬間瞬間の快楽的な物事に心を奪われており、自分の人生を見つめたり、いのちや感謝について考えることはないでしょう。
お寺の鐘の音が「ノイズ」に感じている人は、『うるさいんや。やめろ~』と苦情を言うのではなく、この自分に呼びかけられている願いがあると思ってはどうだろうか。
さいごに。除夜の鐘は無くても新年は来る。でも続けられることが有難い。
さて自坊円龍寺では今年も一年最後の夜。大晦日の年越し前に除夜の鐘を撞きます。
お参りの人が来ていただければなお有難いですが、たとえ来られなくても鐘の音を遠くに耳にしながら新年を迎えていただければなあと思います。
共に一つの音を聞き、共に新たな年を迎えられている。こんなに有難いことがあるでしょうか。
極端なことを言えば、除夜の鐘は無くても時は過ぎて新年は来ます。
ただ仏教では物事は絶えず変化していくことを教えています。「いま・ここの・この私」に気が付いていくことが何よりも大切です。
除夜の鐘が無くても新年は来ます。
しかし節目節目をしっかりと感じていく中に、貴重な有難い時を感じられるのではないでしょうか。
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余談。除夕の鐘は何を言っているんか分からへんね。
さて報道番組を聞きますと、除夜の鐘を打ち鳴らすことに匿名のクレーム電話がかかってくるお寺があるようです。
匿名の電話ほど下らないものはないですが、寺院側も嫌われながらも除夜の鐘を撞きたくはないんですかね。(火をつけられたり、有りもしない誹謗中傷を受けたくもないからね)
で、一部のお寺は大晦日の夕方や日中に梵鐘を撞く「除夕(じょせき)の鐘」を始めたんですって。
私からすると「それって意味あるの?」と思っちゃうよね。もう年末の慌ただしい時じゃなく、年空けてからのんびりと鐘を撞かさせてくれたらいいんじゃないのかなあと思うんですが。
そもそも除夕(じょせき)という言葉は、除夜(じょや)の中国語の表現ですよ。つまり「除夕=除夜」ですよ。
除夕に大晦日の日中や夕方の意味なんてどこにもないんですから。
あんだけ「墓じまい」や「家族葬」といった造語を嫌っているお坊さんが、自分たちから間違った言葉の使い方をさも当然のように使っているのは滑稽だなあと感じました。