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「新春」霊山本廟長(8)【平成27年1月求道】

円龍寺若坊のかっけいです。新年あけましておめでとうございます。

大晦日、観光寺院や本山や札所のお寺では大勢の人がお参りをし、除夜の鐘をつき鳴らすことでしょう。

地方の一寺院では、よほどの思いがないと、除夜の鐘に来られる人はほとんどいません。(もちろん年が明けてからの三が日には初詣に来られますよ。)

そんなわけで除夜の鐘撞きはお寺の若坊のお仕事となっています。

寒風が吹くなか、108の鐘を一時間ほどかけてついています。遠くあちらこちらからも微かに聞こえてくる鐘の音も耳にしながら、一年の思い出と、新年への思いを感じます。

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平成27年1月号の求道

謹んで新春のお慶びを申し上げます。

初めて霊山本廟で迎える年末年始は、忘れそうになっていた感動を呼び起こすものでした。寺で生まれ育った私にでさえ、当たり前の光景が、実は、いとおしき非日常であったことを改めて知らしめるものでした。それは、毎日が常ならざる世界である事を、老いてゆく父親が寂しい別れをしてまで諭してくれた無言の戒めに通ずるものです。

私にとってこの霊山本廟に住込み、本堂へと繋がる五十段の階段を上った先にひろがる世界は、夏目漱石の『草枕』の文中の会話にも登場する、ものが逆さまに見える、まさに全てのものが逆転する世界がそこにはありました。

「別れの中にこそ、別れた人との本当の出会いがある世界」、「悲しみの中にこそ、喜びがある世界」、「往く世界こそ、還っていく世界」。しかし、実際のところは、その世界に頷きながらも階段を降り、温かい布団にくるまれて、嬉々としてこの世の安住にしがみつく、まるで聞き分けのない駄々をこねる幼児の姿の私があります。

寺で生まれ育った者にもそれゆえの、名状しがたい苦しみがあります。透けて見えてしまう世の中の偽りに対する反発、寺の束縛からの反抗、み教えの頂の高さへの畏怖、これらを目の前にして立ちすくむ、めまいにも似た不安。これらを生活の中でかかえながらも、僧侶として生きることは、自己にも偽りの世界が内包する問題として、私への、み仏の悲しいまでの願いとして、再び苦しみまでも受け取りなおした時、あらゆる手立てを施してまで私にかけられた、み仏の願いに目覚めていくことなのです。

浄土真宗は、誰のためのみ教えなのでしょう。私のため、あなたのため、人のため、全てのもののためでしょうか。生老病死に代表される四苦八苦の苦しみは、それを内観する人にとっては、み仏の願いが光として届けられています。悲しみもそして苦しみでさえ、我がいのちの中で働き、輝きを放つ不可思議な光となるがゆえに、私のために起こされたものだと、み仏の願いの生起がいただけてくるのです。何という広大無辺なみ仏の願いなのでしょうか。その願いは、我が心に念仏を称える(となえる)という華の種を蒔いて下さり、華ひらくその念仏の称らい(はからい)は、往生浄土という本末の在り処(ほんまつのありか)を信知せしめて下さるのです。

後になりましたが、霊山本廟に来て九ヶ月、その間には、四十年ぶりに再会できたクラスメート、親鸞聖人御像の前でそっと手を合わす一人の少年、投げキッスをしてくれる女の子、なかには厳しいお言葉も頂戴しながら、お一人おひとりとの出会いの喜びを頂ける場所は、ここ霊山本廟だからこそと、しみじみ振り返る一年でした。お礼を申し上げます。

Bill EvansのMy Foolish Heart

Bill Evans, My Foolish Heart

今宵もまた、ビル エバンスの「マイ フーリッシュ ハート(愚かなりし我が心)」のピアノに心は酔ってしまいます。『 夜は いとおしい歌のよう 愛なのか ただの魅惑だけなのか こんな夜には 見分けがつかかなくなってしまいそう・・・』。誰にでも思い出の中に、心がうずき胸がが締め付けられるような出来事があると思います。ビル エバンスの心の糸をときほぐすような澄みきったピアノには、それが単なる甘酸っぱい出来事だけではなく、悩み傷つきながらも生きてきた、証しであることを私に教えてくれます。

合掌