こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
この10年でお寺や地域社会に関わる環境が大きく変化してきているように感じます。
良い方に良い方に変化していけばよいのですが、多くの寺院や地域が衰退していく方向に変化してきています。
そのことに危機感をもっている人もいれば、まだまだなんとかなるだろうと考えている人もいるでしょう。
私はこれから先の社会が不安で不安で仕方ありません。
今回は若手お坊さんの立場からお寺がどう思われているのか想像してみます。
私が耳にする話。
- あそこの家は年忌法事をしなくなったみたい。
- お布施を差し出さない人が増えている。
- 檀那寺や親戚に相談せずに葬儀式を行った。
- 誰にも告げずに黙って引っ越しをした。
等々の今までの習慣から考えると驚くようなことばかりです。
お布施や葬儀・法事などのお寺が関係する仏教儀式だけでなく、地域のコミュニティーから脱退したり清掃や活動にも参加せず、近所や地域の人々と円滑で円満なお付き合いができなくなっています。
今回取り上げたのはたったの4つですが、数え上げるととんでもない数になるので割愛します。
葬儀の形の変化。
東京などの大都会で住んでいる人には実感が湧かないかもしれませんが、私の住んでいる香川のような田舎ではこの10年程度で葬儀式の形が大きく変化しています。
- 葬儀の場所が自宅から会館(葬儀社)へ
- お参りの人が激減
- 僧侶の人数も減少
- 葬儀を近所や親戚にもお知らせしない
- 香典や供花・供物などのお断り
などなどです。これも限がないほど変化しています。
良い方向に変化していればいいのですが、そうではありません。
最近では小さなこじんまりとした葬儀が勧められていたりしますが、僧侶の私からすれば、「誰の世話にもなりたくないから関わってくるな!!」、「お金さえ払えば葬儀社が何でもしてくれるから、結構です。近づくな!!」と言うことではありませんか。
酷い場合はお寺と葬儀社が同じように捉えられていることもあります。葬儀社と僧侶が結託して高額な金額を請求しているのだと。
葬儀ってお金がだいぶかかる印象がありますよね。しかし葬儀社を使われなければ高額になることもないですよね。
市や町の役場に相談すれば安く須弥壇(祭壇)や棺やお位牌などの葬儀に必要な道具を用意してくれますし、火葬場の手続きも昔は親戚や近所の人が役場に行っていたように自分たちで問題なくできることです。
僧侶は仏式の葬儀にする場合には呼ばなければなりませんが、葬儀社はなくても問題なく仏式の葬儀はできます。
ただしこれらのお金のかからない葬儀は手間がかかってしまいます。
しかし昔は地域の人やお寺との関係が密接だったので、助け合いの中で解決できていました。
葬儀の形の変化の原因はいろいろあるのですが、一つは地域や親戚との付き合いの変化とお金で解決する社会になってきたことが挙げられます。
これらはまた別の機会で話します。
人々の意識の変化。
- お金を支払えば多くのことが解決できる社会。
- 面倒な付き合いをしたくない社会。
- 宗教儀式・考え方を軽視する社会。
極めつけはお坊さんは金儲け主義と思い込んでいること。坊主丸儲けの印象やお布施などから。
なぜ意識の変化が急激に起きているのだろうか。
これは私の推測だが、おそらくインターネットの大幅な普及やワイドショーやバラエティー番組といったテレビといった情報媒体で極端な内容が面白おかしく発信されているからではないだろうか。
特にインターネット上では誤った考えや、なんでもかんでもひとくくりにした考え方が広まっています。
例えば散骨や樹木葬や直葬、遺体ホテルなどである。
これら以外にも「葬儀は不要」や「死んだら無になるor土になる」などの考え方、一部の僧侶のおかしな行動があたかもすべての寺院でさも当然のように当てはまる様に報道したり、一部の地域で受け継がれてきたことを変わった(時代錯誤な)習慣であるかのように報道したりすることがある。
そのような情報によって自分たちの地域で受け継がれていた慣習が崩壊していき、やがては僧侶批判や宗教批判につながっているのではないでしょうか。
もう一つは地域コミュニティーの崩壊です。
今では居住移転の自由により、子や孫、跡取りであろうと親や地元をほったらかしにして遠くに住むことが可能です。
葬儀や法事という仏事は、故人のためにしているとイメージされがちだが、実際には地域の人たちの助けを借りて残された人・生きている人の節目となる行事という意味合いもあります。
葬儀というのも人の死というのを受け入れていく社会的なシステムの一つでした。
しかし現在では地域コミュニティーが崩壊しているので、近所の人が死んでいても無関心になっていたり、葬儀によって地域が生活のために結束するようなこともなくなりました。
お寺へのイメージはどうなっているのだろうか。
地域コミュニティーが崩壊していて近所のつながりが無くなっているのに、お寺との関係が良好な訳がありえませんよね。
江戸時代以降に檀家制度というのができまして、檀那寺(頼りにしているお寺)と檀家(そのお寺に頼っている門信徒)の関係が半ば強制的にできてしまいました。
現在では檀家と檀那寺に関係する法律は存在していないのですが、依然として残り続けています。しかし家を継承していかない新たな世代ではそのような考え方がぼやけてきています。
地域や実家を支えようとしない人が、檀那寺を支えていこうと思ってくれるわけがないですね。
それなのにお寺が法事や葬儀でお布施を預かって、時には寺院を維持するために護持金をお願いしてもいい気分にはならないでしょう。
生死に関することや先祖供養の意識も薄まりつつあり、お寺の存在が鬱陶しく感じる人も多いのではないでしょうか。
特に仏教では財施という布施の考えがあるため、「お寺=お金が必要」とイメージされてしまっているのではないでしょうか。
(私の祖父の代だったかな、寄付をお願いに行きましたら目をえぐれのようなことを言われたそうです。だいぶ昔のことですが、お寺にはいいイメージがないんでしょうね)
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解決にならないまとめ。
お寺に関するイメージは良くないでしょね。
それこそお寺はお金お金ばかり言っているような印象ではないでしょうか。
寺院が無くなっても問題に感じない人もいるでしょう。
これは私の想像ですが、おそらく今後寺院数は5分の1から10分の1程度に激減するでしょう。
一部ではお寺なんで潰れないと思っているかもしれませんが、どのお寺も維持に限界が来ています。ここ香川の真宗寺院でも少しずつ廃寺になっています。
現在では一度宗教法人を失えば、再び取得することが不可能だと思ってください。
お寺が無くなるとそこを頼っていた人たちが困りますし、さらに地域社会がまとまらなくなってしまいます。
何でも自由に何でもお金で解決するのも一つの社会のあり方かもしれませんが、それによって失われている地域や親族のつながり、人の生き死にに関わる問題が疎かにされているのではないでしょうか。
今一度、面倒と感じるかもしれませんが、周囲とのつながりを見つめなおす必要があるのではないでしょうか。あまり大きいことから始めるのではなく、まずは実家の父や母、そして先祖のことにも目を向けていただきたいものです。