こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
*今回はダラダラと書き綴ります。
人は死ぬことをどれほど真剣に考えているだろうか。
実は最近有名な歌舞伎俳優の奥さんが亡くなりました。
35歳で亡くなられ、テレビでは大盛り上がりで毎時放送し続けています。おそらくインターネット上でも、会話の中でもその人の死ということが話題になっているでしょう。
しかしこれはどういった気持ちで盛り上がっているんでしょうね。
私にはさめた感情ばかりが浮かんできます。単にその人に興味がないからかもしれません。
つい先日も、大物俳優や女優そして政治家も死去しました。他にもスポーツ選手や芸術家も亡くなった報道がありました。
でも今回とは明らかに熱量が違うように感じます。
いったい何が違っているのか。
私の結論では「有名人かつ年齢若くして亡くなった人」というのが重要なんでしょう。
現代では長生きするのがだいぶ当たり前になりました。
でもお寺の人間である私にとっては若い人(20代~30代)の死を時々経験します。
若くして亡くなった人の枕経・通夜・葬儀・火葬というのは異様な雰囲気になります。
家族も親友も死を受け入れられない、諦めきれない感情があふれ出てきています。
心無い言い方になるかもしれませんが、この時が一番仏法に出逢えるご縁だと感じます。
現代では様々な情報が手に入りますし、医療も充実してきています。
知識・経験では人間が死ぬことが分かっていますし、一方でたいていの病気は治療でき延命することが可能になっています。
しかし死というのを漠然と考えているだけで、実際に人が死ぬことについて深く見つめられていないようにも感じます。
一年間に34歳未満の人が亡くなるのは、約1万2千人程度です。つまり一年間の死亡数が約120万人であるので、死者の約1%が34歳未満だと言えます。
これが多いと感じるか、少ないと感じるかは人それぞれです。そしてこの上の数字はただの知識です。
「自分がこの1%に入っているとは考えられるのか、死が今でも身近にあると感じられるのか。」というのが僧侶からみて重要なことだと思います。
現代では8割を超える人が医療施設で無くなります。一方で最近では在宅医療の勧めもあり、わずかに増加している在宅死も12%ほどあります。
1950年より以前は8割以上が、1970年代までは5割が自宅でなくなっていたのですが、この70年で綺麗に真逆の状態になりました。
さらにこれに核家族化が進み、一世帯の構成人数が全国平均で約2.5人、東京ではほぼ2人です。
なかなか親・兄弟・子・孫など有縁の人が肉親との死を看取るのが難しい時代になってきています。
身近な人との死というのは、言葉に表せない悲しみがあります。
しかし仏教ではただ悲しみで終わらすのではありません。
次は自分であり、誰にでも死というのが身近であることに気付かなければなりません。死への縁というのは限りなくあるのですから。
看取るというのは非常に有難いこと。
自分のいのちや愛する人々の死について考える機会を持ち、死について真剣に考えることができるから。
テレビや新聞で「今日、○○さんが亡くなりました」で驚くのは、ただ単に出来事に反応しただけで死について考えてはいないはずです。
浄土真宗の親鸞聖人は『またおくれさきだつためしは、あはれになげかしくおぼしめされ候ふとも、さきだちて滅度にいたり候ひぬれば、かならず最初引接のちかひをおこして、結縁・眷属・朋友をみちびくことにて候ふなれば、……』の言葉を残しています。
真宗では亡くなった人を看取るというのはただ悲しい出来事と捉えるのではなく、自身のいのちを見つめるとともに、先にお浄土に往かれた方を仰ぎ、その人をご縁としてやがて自分もお浄土に生まれさしていただく身と喜ばさせていただくのです。
ただ実際にお浄土があるのか、死後があるのかは私にもわかりません。
正直な話、あってもなくてもいいのですが。
また仏教や真宗の教えに生きても死というのはやはり怖いですし、苦しいものでしょう。
ただなぜお坊さんが仏教や真宗をお勧めするのか。
それは人生を空しく過ごさないために。
仏教では人に生まれるのは非常に難しいことであり、仏教に出逢うのはさらに難しいこととしています。
仏教や真宗がなぜ素晴らしいのかと言えば、自分の生きていく道、もっと言えば自分が死んでいく・歩んでいく道がはっきりとするから。
最近では「死後なんか無い。死んだら終わり。死んだら無」と声高らかに言う人もいます。
それも考え方の一つでしょうが、その人は今まさに苦しそうに死にゆく人に対しても、死んだら終わりですよと、言えるのでしょうか。
死にゆく様子はとても辛く苦しいこと。それは念仏者であっても同じこと。
しかし「後のことはまかせてくれよ」とお声かけしてくださる方がいて、それに対して「有難うございます」とお礼を申し上げていく人生。
死というのは誰も逃れられない出来事であり、生きている以上常に心に持ち続けていくこと。
それは若い人であろうと、今まさに死を迎えようとしている人も同じこと。
自分の人生が無駄ではなかったと感じ、悔いのない人生にしていくこと、日々をただただ過ごしていかないこと、死んでいった人を悲しい出来事・感情で終わらさずそれを自分の事と受け止めていくこと。
それが大事だと思います。
もう少しだけ話を続けます。
今風の言い方だと完全燃焼した人生なんでしょうね。
ただ完全燃焼とはなんでしょうか。
悔いのない人生ということでしょうか。
ただ本当に悔いのない人生ってあるのでしょうか。
「あれをするべきだった、まだこれこれができた」と思い起こしてしまうものではないでしょうか。
真宗では道を求める・道を知るという言い方をします。
これは自分の歩んでいく道、人生をしることです。
念仏に生きるというのは、この私が阿弥陀仏によりお浄土に間違いなく生まれさしていただくことだけでなく、後に続く者の道しるべにもなっていくこと。
先立たれた方も仏から願いが掛けられた人であり、その人との悲しい別れを通して自分もまた願いにかけられた存在だと気が付くこと。
浄土に生まれて往くこととは、亡き人との悲しい別れを人生の道標とし仰ぎ偲んでいく中で遺されたものが迷いのない人生を歩んでいくこと。
死んでいった人はそれで終わりではないはずです。
後の人を導く役割があるのですから。