
円龍寺ではご門信徒に一年毎に柱に掛けられる法語を配っています。

祖師高僧方、浄土真宗の篤信者のことばを通して仏さまのこころを味わいます。
住職が考えた言葉がその年の法語となることもあります。
いのちをつなぐ ことば
南無阿弥陀佛
人に育てられ 人になる
仏に願われて 仏になる
どこまでも
逃げるわたしは
慈悲のなか
打たれても
気持ちのよさは 法の道
罪を知らする 慈悲なればこそ
(願船ありのままより)
山地願船(やまじ がんせん)さんは、香川県の多度津丸亀あたりにいたお坊さんです。
香川の妙好人といえば庄松(しょうま)さんが有名ですが、私の地元では願船さんも慕われていました。
「東の庄松 西の願船」といわれていたそうです。願船さんは貧しい農家生まれでしたが、金倉町の東坊にて僧侶になり、後に家をすて行脚の生活を過ごします。
願船さんはいろんなご信心の和歌を詠まれました。

忘れても
忘れぬ弥陀がある故に
忘れながらも
この身このまま
(因幡の源左)
仏恩を
よろこぶ人に 光あり
一寸先は闇という
よくみれば
その闇は私の中にある
(榎本栄一)
むねに六字のこえがする
おやのよびごえ
慈悲のさいそく
なむあみだぶつ
(才市のうた)
道をあやまれば
一生はむなしい
正しき道は
すべての人に開かれる
我が生命
ほとけの願いが
生きている
おかげさまと 手を合わせ
ありがたいと 頭を垂れる
前に生まれんものは後を導き
後に生まれんひとは前へ訪へ
(安楽集、道綽)
朝な朝な 仏とともに起き
夕な夕な 仏をいだきて臥す
(傅大士録)


2013年、円龍寺にお納骨や法要ができる新しいお堂が建ちました。
元々は経蔵があり、転輪の経蔵の発案者である傅大士(ふだいし)が安置されていました。
その傅大士像を化粧直しし、新しいお堂で再びおまつりしています。
傅大士は500年頃の中国の人で、大乗仏教だけでなく仏教以外にも詳しいでした。
行き先を
おのが心に問わずして
まずみ仏に
たずねまいれよ
聞法は知る力
己を知る 喜を知る
死を知る 恩を知る
智慧の光に よりてこそ
愚かな闇の 破らるる
私のあたまに つのがあった
つきあたって 折れてわかった
(榎本栄一『群生海』より)
人生は
念佛の道場である
聞法こそは
生命の道場である
景豊
無量のいのちの
大河に帰す
どんな時でも
お慈悲の中にいる私
報恩感謝のお念佛
仏智の光に照らされて
粗末な我が身が
知らされる
他力に生きる人は
精一杯やっても
おかげさまがでる
(豊島学由)