真宗興正派僧侶のかっけいです。
日本には多くの仏教宗派があります。文化庁の平成28年度の宗教統計資料によると、浄土系の宗教法人が、7万4千ほどある仏教系宗派の4割を占めているようです。
浄土系の仏教宗派はさらに、浄土真宗・浄土宗・時宗・融通念仏宗などに分かれます。真宗興正派は伝統的な10ある浄土真宗宗派の中の一宗派です。
ご門徒さんから、いろいろご質問をいただきます。
真宗興正派と本山興正寺について、まとめていきます。
真宗興正派とは
真宗興正派は、浄土真宗の一宗派です。京都の西本願寺の南隣に位置します。
真宗興正派本山興正寺は西本願寺(本願寺派)と塀続きですが、西本願寺よりも歴史が古く、独立した宗派です。
真宗興正派のお経
浄土三部経(じょうどさんぶきょう)と呼ばれる、阿弥陀仏の願いや阿弥陀仏の浄土世界が説かれた3つのお経文が、拠りどころとなっています。
これらのお経文は、1600年ほど昔の中国で訳された経典です。
浄土真宗の法要では、阿弥陀仏の教えが説かれたこの3つのお経を拝読します。他の仏教宗派でよく知られている般若心経は読みません。般若心経を読まない理由は別記事で説明しました。
という質問があったので、現代語訳した『仏説阿弥陀経』を紹介しました。
浄土三部経に加えて、宗祖親鸞聖人が書かれた「正信偈(正信念仏偈)」も読みます。
正信偈は親鸞聖人の著書である「教行信証」の行巻最後に、親鸞聖人自身がうたわれた偈文です。正信偈は親鸞聖人のおこころとよろこびに触れることができ、本願寺の蓮如上人は朝夕のお勤めにすることをすすめられました。
興正派ではさらに、蓮如上人のお手紙の法話「御勧章(ごかんしょう)」も、お勤めの終わりに拝読させていただく慣習があります。
真宗興正派本山が出している礼拝聖典・同朋聖典には、正信偈をはじとした日常のお勤めが入っていますので、ぜひお持ちください。興正派の正信偈の読み方は、youtubeにて香川の興正派の有志僧侶らのおつとめがアップされています。「真宗興正派僧侶の正信偈音声」の記事で紹介しました。
本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
本尊(一番大切な仏さま)は、阿弥陀如来、あるいは南無阿弥陀仏のお名号です。
仏教には多くの仏様がいますが、浄土真宗は阿弥陀仏を大切におまつりします。脇侍として観音菩薩と勢至菩薩がまつられることもあります。
お釈迦様(釈迦牟尼仏)の像を安置することはありません。ですが真宗ではお釈迦様が説いた阿弥陀仏の救いをよりどころとしているので、阿弥陀仏の像をまつるのと同時にお釈迦さまもおまつりしていることになります。そのため興正派の寺院では、阿弥陀仏本尊の前にお仏飯を二つお供えしています。
宗旨は浄土真宗
真宗興正派は、大谷派(お東・東本願寺)や本願寺派(お西・西本願寺)とは別の浄土真宗の宗派であり、浄土真宗という宗旨のなかの一つの独立した派です。
宗旨(しゅうし)というのは、その宗教の肝心かなめの信仰・教えのことです。
浄土真宗という宗旨は、阿弥陀仏の慈悲と智慧のはたらきを拠りどころし、南無阿弥陀仏のみ教えを聞き信じ、阿弥陀仏の信心とすすめられたお念仏により、阿弥陀仏のお浄土に往生させていただく教えです。
占いや迷信に頼らず、深く因果の道理をわきまえた報恩と感謝の生活を送ります。
宗祖と現在の門主
- 宗派名:真宗興正派(しんしゅうこうしょうは)
- 宗旨名:浄土真宗(じょうどしんしゅう)
宗祖は『見真大師(けんしんだいし)親鸞聖人(しんらんしょうにん)』です。今から800年ほど前の鎌倉時代の人物です。浄土真宗を人々に広められました。
見真大師の呼び名は、明治9年に明治天皇からたまわった諡号です。(あまり一般的ではない)
宗祖親鸞聖人は浄土宗開祖の法然上人のすすめられた浄土教の流れを継ぎます。
興正派の初代は親鸞聖人であり1212年に京都の山科にお堂を建てたことが始まりです。興正派の2世は真仏上人(しんぶつ)であり、親鸞聖人の筆頭の弟子でした。(ややこしいですが、真宗仏光寺派2世、真宗高田派2世も真仏上人です)
本願寺は親鸞聖人の血のつながった子・孫が継いでいきますが、興正派はしばらくの間、弟子が興正寺住職をつとめます。
現在のご門主は、第31世釈本顕(ほんけん)。華園真暢(はなぞのしんちょう)。門主後継者にあたる嗣法には娘の釈真慶となっている。
本山の名称と場所
興正寺の寺号は、興隆正法寺を略したものだと伝えられます。鎌倉時代の順徳天皇により名づけられ、「正しき法を興し、さかえさす」との願いが込められています。
- 興正寺住所:京都市下京区七条上ル花園町70
- 電話:075-371-0075
- 公式サイト『真宗興正派本山興正寺』
平成26年(2014)より京都東山にある霊山別院(霊山本廟)も、本山興正寺の飛び地境内となりました。
霊山本廟は宗祖親鸞聖人の遺骨を納めた廟所と興正寺歴代住職の墓所があり、全国の門信徒の本山納骨所でもあります。
- 霊山本廟住所:京都府京都市東山区清閑寺霊山町4
- 電話:075-561-0940
- 公式サイト『真宗興正派本山興正寺・霊山本廟について』
真宗興正派のお寺は香川県が最も多い
真宗興正派は現在450寺強(462寺)あります。約4割に当たる興正派寺院が香川県(讃岐)に集中しています。丸亀市~観音寺市方面の西讃に67か寺、綾歌・坂出市~さぬき市方面の東讃に124か寺あります。
香川県の仏教寺院は880ほどなので、2割ほどが真宗興正派です。浄土真宗寺院に絞れば、香川県の約半分が真宗興正派です。
興正派のお寺は香川県に200か寺ほど、北海道・奈良・阪神にそれぞれ60か寺ほど、鹿児島に20か寺ほどあります。関東には6か寺ほどしかなく、東北にいたってはゼロです。
興正派は全国7カ所(北海道・大和・阪神・東讃・西讃・鹿児島・特設中央)に教区が分けられています。全国に本山興正寺の別院が7つあります。
各地の興正寺別院と興正派寺院は、本山興正寺の公式ページ「興正寺別院一覧」と「寺院一覧」より確認できます。
ちなみにこの文章を書いている私は、香川県丸亀市円龍寺の興正派僧侶です。自坊円龍寺については、「円龍寺はどんなお寺なのか」で紹介しました。
仏壇の飾り方。焼香回数など
仏壇のお飾りの仕方はこちらのページでイラストをつけて紹介しました。飾り例は真宗興正派勤式研究会が監修したものです。
ここでも仏壇の飾り方をいくらか紹介します。
お焼香の作法も簡単に紹介します。
真宗のお香のお供えは、御利益・功徳があるからというよりも、阿弥陀仏のお浄土を偲ぶ意味や清浄な気持ちで仏様を拝むためにします。
作法も他宗と比べて簡素であり、右手でお香(抹香)をつまみ、額まで押しいただくことなく、ただそのまま右から左へと香炉に入れます。
お焼香をした後は、合掌と礼拝をします。焼香の回数は興正派では2回となっています。
これらの詳しい焼香作法は、本山興正寺の「門徒の心得と作法」で動画付きで解説されています。座ってする焼香・立ってする焼香の両方ともに動画があるので、ぜひご覧くださいませ。
また興正派は「興隆正法運動」という教化テーマがあります。興正派の僧侶と門信徒がともに目指していく生活姿勢のことです。
さらに2023年に営まれる親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年法要に向けて、新たな教化スローガンも掲げられています。詳しくは本山興正寺公式ページ「興隆正法運動」をご覧ください。
2011年には宗祖親鸞聖人の50年毎の大遠忌法要がありました。本山興正寺公式ページ「大遠忌法要アーカイブス」では、1912年の650回大遠忌から法要の様子を写真で公開しています。
興正寺の歴史
- 鎌倉時代1212年、京都山科に興正寺のお堂を構えたとされる。
- 京都渋谷に移り、佛光寺と両号を用いる。
- 1481年頃蓮教(経豪)上人より、本願寺とともに歩む。
- お堂が焼け、大阪に移転。
- 江戸時代顕如上人の長男・次男・三男が、それぞれ大谷派・興正派・本願寺派の門主となる。
- 明治9年本願寺とわかれ真宗興正派は独立。
興正寺の詳しい歴史
興正寺の詳しい歴史は、本山興正寺公式ページ『興正寺史話一覧』に書かれています。
現在、興正寺史話は215話まであります。非常に詳しく書かれボリュームもあるので、すべて読むのは大変です。以下、大まかな歴史を紹介します。
大まかな歴史
興正寺はいまでこそ西本願寺と塀続きの場所にあります。
しかし鎌倉時代当初、1212年ごろに京都の山科(やましな)の地にお堂を構えていたとされます。1320年ごろ興正寺第7世了源上人(りょうげん)の時に、山科から京都東山の渋谷(しぶたに)に移動します。
渋谷に移ったのち、ご本尊が光を放ったことから、後醍醐天皇より阿弥陀佛光寺の寺号を賜り名を改めます。これより興正寺と佛光寺の両号を用いました。
第13世光教上人(こうきょう)までは、佛光寺と興正寺は同じ門主がつとめていました。
しかし第14世蓮教(経豪)上人は、1481年頃に本願寺第8世の蓮如上人に帰依し、仏光寺を出て再び山科に興正寺のお堂を再興します。(ちなみにこのころは、蓮如上人が福井県吉崎から京都に戻り、かつて興正寺があった山科に本願寺を建てていた時です)
興正寺と仏光寺はここで別れます。ちなみに仏光寺派第14世の経誉上人(きょうよ)は興正派第14世経豪の弟です。
山科にともにお堂を建てた本願寺と興正寺はともに念仏布教をします。1532年の山科の火事では本願寺も興正寺もともに焼失しお堂を失います。
本願寺はすぐに大坂の坊舎(現在の大阪城の場所)に親鸞聖人御影を移し、本願寺を再興します。
1533年8月に興正寺第15世の蓮秀上人(れんしゅう)もまた大阪に移ります。理由はすでにこの地に興正寺の坊舎があったからです。(大阪の本願寺と距離が近かったので、交流が深かったようです)
1560年頃に第16世証秀上人(しょうしゅう)が大阪富田林の地を買い、寺内町を開く。(ちょうど本願寺第11世顕如上人(けんにょ)が本願寺住職になったころ)
1564年に大阪は大火に見舞われ、大坂本願寺は消失するが、興正寺は免れる。その後、本願寺顕如上人は一年ほど興正寺に滞在します。
顕如上人は男の子を3人産んでいます。その次男坊が後に興正寺第17世となる顕尊上人(けんそん)です。
証秀上人は34歳でなくなり子供がいませんでした。亡くなる半年前にのちの顕尊上人を養子に迎えました。この時、顕尊上人はまだ4歳でした。
2年後、父の本願寺顕如上人は、正親町天皇の許しを得て、子供である興正寺の顕尊上人を脇門跡に認めてもらいます。顕尊上人はまだ阿古丸という幼名を持つ6歳の稚児だったので、仕方のないことだったのでしょう。得度もまだでした。
興正派興正寺が本願寺の脇門跡と呼ばれるようになったのは、このころの顕尊上人(阿古丸)が脇門跡となったことが由来です。
1570年より本願寺顕如上人は織田信長と戦います。
1580年、本願寺は朝廷の勧めに従って信長と和睦します。この時の信長の条件が、本願寺が大坂からの退去することでした。
顕如上人は条件を受け入れましたが、長男の教如上人(きょうにょ)は反対しました。(これまでに何度も和睦を破られたからです)
この結果、父の顕如上人と長男の教如上人は対立することになりますが、信長の死により、1582年に和解します。この和解のあっせんをしたのが、次男の顕尊上人でした。
この和解後、興正寺の顕尊上人は結婚します。お相手は公家の冷泉為益の娘であり、興正寺15世蓮秀上人の孫にあたります。ですので興正寺の血筋が途絶えたわけではないのです。
1583年に顕如上人と脇門跡の顕尊上人は秀吉の命令により、大阪の南郡貝塚の地に移動します。(すぐに秀吉は大坂本願寺の地に、大阪城を建てはじめます)
1585年に秀吉から大阪天満が寄進され、本願寺と興正寺はそれぞれお堂を建立します。
1591年、秀吉は顕如上人に本願寺を天満から京都に移すよう命じます。下鳥羽より北であれば選ぶことができ、顕如上人は現在の西本願寺の地である六条堀川周辺に移転しました。(ちなみに佛光寺も秀吉により、渋谷から現在の五条坊門の地に移転しました)
顕如上人と顕尊上人はともに京都に移ります。本願寺は天満の御影堂を建物ごと京都へと移築しています。しかし興正寺は天満の地に残し、天満御坊と呼ばれます。
翌年の親鸞聖人の報恩講法要中に顕如上人は亡くなり、長男の教如上人が本願寺の住職を継ぎます。(ただし本願寺派第12世とはなってない)
まもなく、秀吉により教如上人は隠居し、三男である弟の准如上人が本願寺を継ぎ本願寺派第12世となります。
長男の教如上人と三男の准如上人の対立は深まる一方で、准如上人は兄である次男の顕尊上人との親交を深めます。当時の興正寺は多数の門末をかかえていたからです。
1596年に慶長伏見の大地震が発生し、本願寺・興正寺をはじめ、京都の多くの建物が倒壊しました。
1598年に顕如上人の妻、そして豊臣秀吉が、1599年には興正寺第17世の顕尊上人が亡くなります。
1600年に徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち、また教如上人と家康は親睦を深めます。1602年に教如上人に京都の烏丸六条の地を寄進し、現在の東本願寺が建てられました。これにより本願寺は西と東に分かれました。
本願寺は東西に分かれましたが、各末寺や門徒がどちらに帰属するかは別問題です。興正寺第18世准尊上人(じゅんそん)は東本願寺とともになろうとしました。
1596年に倒壊した興正寺本堂は、1608年に再建されます。
江戸時代、西本願寺は興正寺への支配を強めます。しかし興正寺門下は興正寺をトップに一つのまとまりができていました。(江戸時代の幕府の「祖門旧事記」の記録によると興正寺門末は2117ヶ寺あったとされる)
興正寺第14世経豪上人から長く本願寺と歩んでいましたが、江戸時代以降、興正寺は一つのまとまりとして興正派を独立しようとする気運も高まりました。
1876年の明治9年、第27世本寂上人(ほんじゃく)の時、ようやく独立し、真宗興正派となりました。
1902年、不慮の火災により、本堂やその他多くの建物が焼失しました。それまでの巨大な一つの伽藍「ひとつ御堂」から、阿弥陀仏を安置する「阿弥陀堂」を1912年に、宗祖のご真影を安置する「御影堂(ごえいどう)」を1915年に再建しました。
本山興正寺の見どころ
興正寺の歴史に続き、京都本山興正寺の見どころ(観光ポイント)を紹介します。
御影堂(ごえいどう)
本山興正寺の境内に入り、左に手に見える大きな建物は「御影堂(ごえいどう)」です。
明治45年(1912年)に再建されたお堂。横幅33m・奥行き41m・高さ28mもあり、興正寺で最も大きな建物です。
お堂の中、正面に宗祖親鸞聖人のご真影を安置しています。40歳のころのお姿とされます。
阿弥陀堂
御影堂の右手(北側)の建物は「阿弥陀堂(あみだどう)です。大正4年(1915年)に再建されました。屋根は二重になっており、高さは隣の御影堂とほとんど同じです。広さは半分程度です。
阿弥陀堂内の正面にはご本尊である阿弥陀如来の立像が安置されています。お堂の外陣灯篭の底には興正寺の寺紋「抱き牡丹」が装飾されています。
観光ポイント
興正寺の伽藍は大きく荘厳ですが、隣に世界遺産の西本願寺があり、観光客は少ないです。そのため堂内は静寂な雰囲気であり、気兼ねなくじっくりと拝観することができます。
興正寺は真宗興正派の本山です。他の浄土真宗の本山と同じように内陣の装飾は立派です。西本願寺や東本願寺と比べて、仏さまにより近い距離で拝めます。
現在、御影堂内は拝観できません。しかし2018年7月に遷座法要を行い親鸞聖人像を阿弥陀堂に移しました。今だけ、宗祖・高僧らの特別な配置の阿弥陀堂内を見ることができます。
興正寺の三門と阿弥陀堂門
興正寺の入り口は堀川通に面しています。
ここには二つの門があり、阿弥陀堂の正面に「阿弥陀堂門」、御影堂の前に「三門(さんもん)」があります。どちらの門も1912年の宗祖親鸞聖人の650回忌大遠忌法要に建てられました。三門の扉には、興正寺の抱牡丹紋の彫刻がデザインされています。
三門をくぐり境内に入ると、左右に紅白の梅が植えられています。2月上旬から咲き始めます。2月中旬から3月上旬が梅の見頃です。
その他の建物
興正寺の鐘楼
興正寺の鐘楼は境内南東の角(三門の南)にあります。本山興正寺で現存する最も古い建物とされます。
1774年に116代桃園天皇の13回忌にあたり、皇太后の恭礼門院から梵鐘と共に寄進されました。階層のある袴腰の鐘楼であり、京都にある真宗本山の西本願寺・東本願寺・仏光寺とは異なるつくりです。
経蔵(法宝蔵)
興正寺の経蔵は境内北東の角(阿弥陀堂門の北)にあります。経蔵には経典など貴重な資料が納められています。
経蔵は1848年に建てられ、121代孝明天皇より「法宝蔵」の勅額が下賜されました。1902年の火災は免れており、現在も残っています。建立当初の位置が唯一変わっていない建築物とされています。
興正会館
興正会館はかつて研修施設や宿泊施設として使われていました。しかし2019年2月をさいごにレストランも退去し、現在は安全面を考慮し、使用されていません。
ホテル案などもありますが、今後の計画は不透明なままです。
宗務所
三門と阿弥陀堂門の間には、興正寺宗務所があります。
宗務所には本山興正寺に勤めている僧侶(職員)がいます。この建物では式章や聖典や書籍を求めることができます。
またガイドを希望される場合は、事前相談も受け付けています。取次の寺院がある場合は、その寺を通して連絡いただければ。
興正寺の寺標
三門をくぐる前、堀川通に面したところに、興正寺の寺標があります。「本山興正寺」と刻まれており、このお寺が、真宗興正派の本山興正寺であることを人々に伝えています。
霊山本廟(納骨堂)
霊山本廟(りょうぜんほんびょう)は京都東山にあります。
もともとは霊山別院と称し、本山の別院でしたが、2014年より本山興正寺の飛び地境内となり霊山本廟と改称しました。
この地は親鸞聖人が火葬された鳥辺野の北に位置し、親鸞聖人の遺骨を納めた廟所(びょうしょ)があります。また浄華堂(じょうげどう)と呼ばれる納骨堂があり、全国の門信徒の本山納骨場所です。
近くには世界遺産の清水寺や、同じく宗祖親鸞の遺骨を納める本願寺派の大谷本廟や大谷派の大谷祖廟があります。
納骨だけでなく、一座経や年忌法事も受け付けています。また春秋の永代経法要や除夜の鐘などの法要も勤めています。
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興正寺のアクセス&観光情報
- 拝観料:阿弥陀堂・御影堂は拝観自由。拝観料はなし
- 開門時間(拝観時間):午前6時ごろ~午後5時ごろ
- 休日:365日拝観可能
- アクセス:JR京都駅から北へ徒歩約10分。京都市営バス「七条堀川」を下車して徒歩すぐ
- 駐車場:境内には裏手口より車で入れますが、駐車を希望する場合は、事前に宗務所へ確認してください
- 住所:600-8261, 京都市下京区七条上ル花園町70(西本願寺の南隣)
- TEL:075-371-0075
- FAX:075-371-8509