香川在住のかっけいです。
日本各地には様々な伝説があります。私が住んでいる香川県でも数多くあります。
例えば、多度津町の白方(四箇・阿庄)には、「みはか」というひっそりと佇んでいるお墓があります。
このお墓は神功皇后が関係しているようです。
今回は「みはか」と「神功皇后」について紹介します。
「みはか」とは何?
「みはか」とは、「日本に3つしかない墓の一つ」だそうです。(あと二つはどこにあるんでしょうか)
私が言っているんじゃないですよ。そのように書かれているんですから。
さらには「四箇村史」によると、「みはか」のある場所は絶対に雷が落ちないんだそうです。だから阿庄には雷が落ちたことがないらしい。(雷が落ちる方が稀なような気もしますが……。)
四箇村(しかむら)と阿庄(あしょう)は多度津町山階(やましな)・白方(しらかた)にある地名です。
そしてお墓と書かれていますように、この「みはか」には古そうな五輪の墓が数基あります。
個人的感想では、「みはか」は「三つある墓」ではなく、「御墓・陵」を表していたのではないだろうか。
辞書によると「御墓・陵(みはか)」には、「天皇・太皇太后・皇太后・皇后の墓」の意味があり、神功皇后に関係する身分の高い人をまつっていたのではないだろうか。
神功皇后との関係は?
そしてこのお墓が誰のどういう云われのお墓かを看板には次のように説明しています。
日本書紀によれば仲哀天皇の皇后、名は息長足姫尊(神功皇后)、仲哀天皇の急死後、朝鮮に出兵し新羅を討ち、百済・高句麗を帰服させたことがしられている。
三韓征伐の帰路瀬戸内海で、あらしにあい弘田川の河口に避難のため当地に立ち寄って当分の間、ここに留まったものと推定され、多分、皇子か身分の貴い人を葬ったのではないかと思われる。
仲哀(ちゅうあい)天皇は14代天皇で西暦で表すと192~200年頃、神功(じんぐう)皇后は天皇ではないが15代応神(おうじん)天皇の母とされ201~269年頃に政事を執り行ったと伝えられます。
仲哀天皇と神功皇后は実在していたか怪しいとされる天皇皇后ですが、神功皇后の朝鮮出兵の三韓征伐は有名であり、全国各地で神功皇后の伝説が残っています。
香川にも立ち寄ったとされています。
また香川県多度津町には神功皇后の伝説が残っている土地があります。
- 多度津町仲多度郡西白方 熊手八幡宮
- 多度津町大字 榜立八幡神社
- 多度津町四箇 宿地神社など
この3か所は上で紹介した「みはか」と比較的近い位置です。(歩くには遠いですが、車だと3分で着きます)
これら3つの神社もやはり三韓征伐の帰りに嵐を避けるために立ち寄ったことが由来だそうです。
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さいごに
全国各地には様々な伝説が残っています。
今回紹介したのは雷が絶対に落ちない場所とされる「みはか」というお墓についてです。香川県多度津には神功皇后が立ち寄った伝説があり、このお墓も神功皇后に関係あるんじゃないのかなあと希望交じりに看板に書かれているように感じます。
しかしこの多度津町の白方・阿庄・四箇村の地には古墳時代の集落遺跡や古墳が数多く残されています。
この「みはか」の周辺にも祠が点在していますし、すぐ近くには「盛土山古墳」があります。出土品から5世紀末の古墳だと推定されているようです。
「みはか」が神功皇后と本当に関係あるのかは不明ですが、ロマンのある場所ですし、探してみますと結構いろいろと新しい発見があるものです。意外なところに祠や古墳や遺跡があったりします。