戦国時代の武将たちの墓は残っているものもあれば、どこにあるのか不明なものもあります。伝承として伝えられている墓もあります。
今回紹介するのは、私の住んでいるすぐ近くにある香川太仲(愛称:たっちはん)のお墓です。
「誰のお墓?」と思うでしょうが、私を含め、詳しいことを知る人はいないようです。

香川太仲は天霧城主、香川信景の家老らしい
このお墓には、由緒の石碑が建立されています。平成12年の墓地改装の際に新たに設置されました。
ここに記されている碑文を紹介します。
たっちはん
戦国時代末期
天霧山城主香川信景に仕えた家老香川大仲の墓と伝え周辺の開発に伴い出土した五輪の石も合わせ祀り「たっちはん」と愛称されています。
墓地は椿などの繁みに覆われ木を傷めると腹痛をおこすと畏れられていました。
丸亀藩の歴史書に「瘧(オコリ マラリアの一種)ヲ患ル者祈ルニ験アリト云」と記述されています。
昔は遠く岡山・福山辺りから参詣者があったと伝え太平洋戦争当時お参りが増え、平成の世も稀に訪ね来る人に出会います。
平成十二年三月 合掌
香川太仲は伝承では天霧城城主であった香川信景(のぶかげ)の家老とされています。
香川信景とは香川之景(かがわゆきかげ)のことで、室町時代末期から安土桃山時代にかけて仲多度郡・善通寺・丸亀周辺で活躍した讃岐国の武将です。
信景の名前は、後に織田信長から信の一字を頂いたことによります。
また香川信景は天正3年(1575年)に私の23代前の先祖、金倉顕忠を金倉合戦でやぶった人物でもあります。ちなみに天霧城は1585年の豊臣秀吉の四国征伐の際に滅ぼされ、天霧城は廃城になりました。
香川太仲は家老とされますが、調べてもそのような名前が出てこないので、伝承の中で名前が変化したのかもしれません。愛称の「たっちはん」もどこからネーミングされたのか不明です。
小さなお墓がたくさんある

平成12年に改葬されたお墓ですから、一見すると古い戦国時代のお墓のようには見えないかもしれません。

ですがここには古い時代の五輪墓?がたくさん密集しています。
これは香川太仲の家臣たちなのか一族なのかは不明ですが、これだけの数の五輪墓があるのはそれなりの人物だったのではないだろうか。
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香川太仲(たっちはん)の墓の場所
昔はお参りの人もいたらしいですが、最近ではほとんどその姿を見ることはありません。
しかし平成12年に地元の有志(北条・青木北山)の人たちが改装しました。その際には私の父である円龍寺住職がお勤めをしました。
歴史書にも見ることができない人物で、興味のある人は少ないかもしれませんが、場所を紹介しておきます。

グーグルマップより、マップ中央付近に墓がある。
おおよその住所、香川県仲多度郡多度津町葛原695
南500メートルほど先に、葛原正八幡宮の神社や真宗興正派寺院の浄蓮寺、八幡の森ほたるの里がある。