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香川信景の家老。香川大仲の墓(多度津町北条)

投稿日:2018年2月11日 更新日:

こんばんは。 かっけいです。

戦国時代の武将たちの墓は残っているものもあれば、どこにあるのか不明なものもあります。

または伝承として伝えられている墓もあります。

今回紹介するのは、私の住んでいるすぐ近くにある香川大仲(愛称:たっちはん)のお墓です。

「誰のお墓やねん」と思うでしょうが、私を含め誰も詳しいことを知りません。

香川信景家臣。香川大仲の墓。

香川大仲とは誰。天霧城主、香川信景の家老とされる。

このお墓には現在、由緒の石碑が建立されています。

この石碑は平成12年の墓地改装の際に新たに設置しました。

ここに記されている碑文を紹介します。

たっちはん

戦国時代末期 

天霧山城主香川信景に仕えた家老香川大仲の墓と伝え周辺の開発に伴い出土した五輪の石も合わせ祀り「たっちはん」と愛称されています。

墓地は椿などの繁みに覆われ木を傷めると腹痛をおこすと畏れられていました。

丸亀藩の歴史書に「瘧(オコリ マラリアの一種)ヲ患ル者祈ルニ験アリト云」と記述されています。

昔は遠く岡山・福山辺りか参詣者があったと伝え太平洋戦争当時お参りが増え、平成の世も稀に訪ね来る人に出会います。

平成十二年三月  合掌

香川大仲は伝承では天霧城城主であった香川信景(のぶかげ)の家老とされています。

香川信景とは香川之景(かがわゆきかげ)のことで、室町時代末期から安土桃山時代にかけて仲多度郡・善通寺・丸亀周辺で活躍した讃岐国の武将です。

信景は後に織田信長から信の一字を頂いたことによります。

また香川信景は天正3年(1575年)に私の23代前の先祖、金倉顕忠を金倉合戦で破った人物でもあります。

ですので私の先祖と縁のある人物でもあります。(ちなみに天霧城は1585年の豊臣秀吉の四国征伐の際に香川家は滅ぼされ、天霧城も廃城になりました)

香川大仲は家老とされるのですが、調べてもそのような名前が出てこないので、伝承の中で名前が変化したのかもしれません。愛称の「たっちはん」もどこからネーミングされたのだろうか。

一見するとお墓に見えないが、よく見ると五輪墓がたくさんある。

香川之景家老・香川大仲の墓

平成12年に新たに改葬されたお墓ですから、一見すると古い戦国時代のお墓のようには見えないかもしれません。

しかしこの角度から見てはどうだろうか。

香川大仲の墓。五輪墓(五輪塔・五輪卒塔婆)

桃山時代以降によく見られるようになった五輪墓(五輪塔・五輪卒塔婆)がたくさん密集しています。

これは香川大仲の家臣たちなのか一族なのかは不明ですが、これだけの数の五輪墓があるのはそれなりの人物だったのではないだろうか。

(ちなみにですが、香川大仲と伝えられているのですが、新しく建立した碑には香川太仲と彫られているように見えます。ミス?)

さいごに。香川大仲の墓の場所。

昔はお参りの人もいたらしいですが、最近ではほとんどその姿を見ることはありません。

しかし平成12年に地元の有志(北条・青木北山)の人たちが改装しました。

その際には私の父である円龍寺住職がお勤めをしました。

歴史書にも見ることができない人物ですので、よほど興味のある人しか尋ねないかもしれませんが、一応場所を紹介しておきます。

(ちなみに城主である香川信景の墓は現代でも不明です。どこで死去したかも不明です。香川氏累代の墓は四国八十八箇所霊場の第71番弥谷寺にあります)

香川大仲の墓。仲多度郡多度津町北条の地

グーグルマップ。マップ中央付近が墓の場所。

おおよその住所:香川県仲多度郡多度津町葛原695

南500メートルほど先に、葛原正八幡宮の名称の神社や真宗興正派寺院の浄蓮寺、また八幡の森ほたるの里があります。

7/1記事下profと案内,6月15日より



釋克啓プロフィール写真80px サイト運営者の釋克啓(かっけい)です。
香川生まれ,香川育ち,香川大学出身。
香川県にある円龍寺の若坊である28歳。
現丸亀市仏教会理事

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