火葬場への行き帰りを違う道になぜするんや

こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。

浄土真宗は世の中の迷信・俗信にとらわれない生き方をしますので、一般的な考え方とは違うこともあります。

葬送儀礼に関しては如実に表れてきます。

  • 清めの塩を用いない。
  • 故人の茶碗に仏飯を盛らない。
  • 着物を逆さ着にしない。
  • 魔除けの刀を置かない。
  • 三角頭巾や杖などの、冥土の旅支度をしない。
  • 友引・仏滅でもOK。
  • ローソクや線香の火を絶やしても大丈夫
  • 棺を回さない。茶碗を割らない。
  • 火葬場との行き帰りの道を変えない。
  • 49日法要が3ヶ月に渡ってもOK。
  • 墓相にもとらわれない。

ざっと挙げるだけでもこれだけの数が出てきます。葬儀は亡くなった故人を偲び火葬するための儀礼であり、人生の節目です。誰もが避けることのできない人生の一大イベントです。

しかし日本人の多くは古来より死を穢れと考えているためか、死に関する行事全般に対して目を背けたり忌み嫌っているように感じます。

霊柩車を見たら親指を隠すというわけの分からない迷信すらもあります。

今回の話はあえてお坊さんは言わないけども、常々感じていることを書きます。

なんで火葬場への行き帰りを違う道にするのですか

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なぜ霊柩車・遺族が行き帰りに同じルートを通らないのか。その理由。

故人がこの世に戻ってこないように

火葬場への行き帰りを違う道にする理由はこれ一点に尽きます。

なぜ故人が帰ってきては困るのでしょうか。それは死者を穢れとしてみているからです。

故人が道を覚えて再び戻ってくることを恐れているのです。ですので(最近では減りましたが)、棺を車に載せる前にくるくる回すのも方向感覚を失わせるためにやっているのです。

でもこれって全然仏教的な考え方じゃありませんよね。

死を嫌う日本人。

死を嫌う日本人とい書きましたが、実際問題として日本人じゃなくても死というのは忌み嫌います。それぐらい死というのは不安になるのです。

例えば葬儀会館が街中や住宅街にできる計画があったとしましょう。するとそんな建物ができたら困ると反対運動が起きるでしょう。火葬場だって同じですよね。

10年ほど前ですが、私の住む隣の町では結婚式場と葬儀会館が道路を挟んで向かい合っていました。しかし利用者が少なかったのかどちらも無くなってしまいました。理由は様々でしょうが、結局のところは「縁起が悪い」・「気味が悪い」となるのが本音ではないだろうか。

生き物は必ず死にます。辛いことや悲しいこと、または楽しいことや嬉しいことがあってもやがては死にます。

仏教的には先立たれた故人は、先にお浄土に生まれた諸仏として敬います。

霊柩車を見たら親指を隠す迷信もありますが、昔の念仏者はこう言いませんでしたか。「霊柩車に出あったら、手を合わしなさいよ」と。

手を合わすのは亡くなった人を恐れや穢れとして考えているからではありません。どこの誰かは存じませんが、有難いご縁の人生を過ごし、自身の死という姿を通して私たちに生き物としての真理を見せてくださっているのです。浄土真宗では出棺時に棺の中に修多羅要文(しゅたらようもん)と呼ばれる紙を納めます。あの中には仏様の金言が書かれているのです。棺に手を合わせるのは、ありがとうと偲ぶだけでなく、自ずと仏様にであうご縁をこの私もいただいているのです。

人は死を嫌うのかもしれません。しかし死というのは誰もが迎えなくてはならず、「人の死を見たくない・遠ざけたい・関りを持ちたくない」と考えるのは、「生きる・生きている・生まれ死んでいく」ということからをも気が付きにくくなってしまっているのです。つまりは死というのは他人事ではないということです。

死者に対して「帰ってくるな・ついてくるな」は矛盾があるよね。

  • 故人の茶碗を割る。
  • 棺をくるくる回す。
  • 行き帰りを違う道にする。
  • 家に戻った時は清めの塩を。

これらは死者を不浄のものとして扱い、悪霊や祟りとしてみなしているのではないでしょうか。

故人の茶碗を割らないと成仏せずに食事に帰ってくる。棺を回さないと、火葬場から帰ってくる。行き帰りを変えないと一緒についてくる。清めの塩を使わないと、災いがおきる。

そのように考える宗教があるのであれば、仏教僧侶である私からは口出しできませんが、仏教徒であるならばおかしな話です。

だってね、死者が対して「帰ってくるな・戻ってくるな」とあれやこれやとしていますけども、お盆の時には迎え火を焚いて、食事を用意して、乗り物まで供えているじゃないですか。

葬儀の時は帰ってくるなと言いながら、お盆の時には帰ってこいとは、いささか不思議な話です。


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さいごに。行きも帰りも同じ道でも問題ない。

亡くなった人のために、「あれをしてあげよう・これをしてあげよう」。「あれをしないと駄目」・「しないと先祖が迷うし、災い・祟りの原因になるぞ」と考えるのは、あくまで生きている人間中心の物の見方ではないでしょうか。

繰り返しになりますが、葬送儀礼というのは亡くなった人に対して生きている人が何か手助けしてあげようとするのではなく、諸仏となられた亡くなった人を通して、偲んでいく中に生きている私たちに仏法にであうご縁とさしていだくのです。

先祖が祟る迷うなどと私たちが心配する必要はなく、むしろそれに迷い悩みとらわれている私たちの心の方が問題なのです。

最近では自宅での葬儀も減りました。

出棺後には人生を過ごしお世話になった仮の宿のご本尊にお礼を申すために自宅の側まで霊柩車を走らせることもあります。そんな故人に対して私たちは忌み嫌ったり帰ってくるなと振舞えるのでしょうか。

火葬場と葬儀場所と自宅の行き帰りの道が同じ道でも何の問題もありません。それは故人が迷って成仏できないのではないかと生きている人が勝手に悩んでいるのであって、まことに仏教徒であるならば故人は諸仏となられているのだと迷わず偲んでいくのがよろしいのです。

故人の霊が憑いてくるかもしれない・戻ってくるかもしれないと反論する人もいるかもしれませんが、ではなぜお盆では迎えるのですか?亡くなった人は生きている私たちの行いで、自由にコントロールできるのですか?

迷信にとらわれている私たちがいかに愚かな姿であるか、自分中心の物の見方をこえたところ(仏様の願い)から気が付いてほしいです。

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