こんばんは。 僧侶のかっけいです。
お坊さんにも多くの悩みがあります。
- 法事仏事が減っていること。
- 跡取りがいないこと。
- 地域の活力がなくなっていること。
- これからも寺院が維持できるのかということ。
まだまだ悩みはありますが、どれもこれも解決するのは大変なことばかりです。
今回の話のテーマは「お寺にお参りする」ということについてです。
どうでしょうか。皆さんはお寺に行っていますか?
お坊さんからすれば、どんどんどんどんお参りが減っているなあというのが感じ取れます。
「住んでいる人・案内を受けている人はいるのに、お寺には行かない。」、これってなぜだろうか?
お寺の行事に参加しないのはなぜか。
理由はいくつかあるでしょう。
- 魅力を感じないから。
- 今、必要に感じないから。
- 面倒で煩わしいそうに感じるから。
- そもそも宗教施設って怪しそう。
例えば先日自坊で、春の永代経法要がありました。
当日お寺に来られた人の2割程度が法要開始の時間に椅子に座り、法要に参加していました。
残りの7割以上の人はお寺に来るには来たのだが、御仏飯米袋やお灯明料をつけ、お焼香をしてそのまま帰ります。
「もうしばらくで法要が始まりますよ。どうぞご参加くださいと」お声を掛けても、なんやかんやで帰られます。
もちろんお寺に来られて手を合わされるだけでも有難いのですが、あとほんの少しのお寺の行事に参加するという行動まで到達しないのです。
それは若者だからではありません。60歳や70歳や80歳といったいわゆる高齢者もお寺の行事に参加しません。
ではなぜ法要に参加しないのでしょうか。
- 「お寺の法要に参加しても、得られるものは何もない。」
- 「今の自分にはまだまだ関係ない。」
- 「お寺には付き合いで来ているだけ。」
というのがあるのかもしれません。
あくまで僧侶の私が感じる推測ですが、どのように思われますか?
イベントに魅力があればお寺にも行く。
お寺の法要や家での法事に若者が参加しないというのはよく聞く話です。
しかし一方で有名寺院に観光で行く日本人はそれなりにいます。それは若者もそうです。
またお寺で音楽コンサートや学習教室・スポーツ教室などがあれば、若者や親子が参加されたりします。
例えば私は先日、観音寺市中心市街地にある一心寺の『よるしらべ』に参加してきました。これは観音寺市中心市街地の複数スポットでしていた芸術イベント『よるしるべ』の一つの会場です。
内容は雅楽と声明のお勤めでした。
僧侶からすれば普段寺院でしている法要とそれほどの違いはなかったのですが、お堂が一杯になるほど、境内に溢れるほどの人がお寺に来ていました。
地域全体が参加しており盛り上げ方が上手だったのもあるのでしょうが、決して若者だからお寺に行かないということはありません。
むしろ非常に多くの親子連れや若者が来ていました。
要は魅力的に感じるかどうかです。
多くの人にお寺に来てもらうにはどうすればいいのか。
手っ取り早いのは、寺院活動をしないことでしょうね。
ヨガ教室をしたり、音楽コンサートといった芸術活動をしたり、英会話・書道・絵画といった子供のいる親受けすることをすればいいのでしょうね。
でもそれじゃあ、僧侶としてあんまり意味がない。
それらで出来ている人は、ただ単にお寺という場所でしているから来ているだけ、法要に参加したり仏法を聞こうとしているわけではないのだから。
もちろん全く意味がないと言ってはいません。とりあえずお寺に行くという感覚を持ってもらうこと。そして活動を通してお寺や地域が活性化することも大切です。
若者が参加しないと言われるが…実際は。
上の方でも説明したが、別に若者でなくても高齢者もお寺の行事に参加しません。
むしろ若者の方が観光で有名寺院に旅行していたりするものです。
ただ観光というのは行ったつもり、参ったつもりになるだけで、そのお寺にはどんな仏様がまつられているのか、どんな宗派・教義・歴史があるのかなんて知らずないということがしばしばあります。
若者や年配者に限らず、知ろうという気持ち・自分にとって大切なご縁という気持ちがなければなかなか参れないのだと思います。
仏事や法要というのは、非常にツマラナイ場所かもしれません。
物に溢れた時代・お金があれば解決できる時代になったので、いのちについて見つめようとする教えを聞いても鬱陶しいと感じるのかもしれません。
それこそ僧侶は葬儀の時だけいればいいと考え、わざわざお寺に行って行事に参加する必要はないと思っているのかもしれません。
「お寺は高齢になってから行くところ。」・「お年寄りしかいなくて行きにくいところ。」と考えるあるように若者もいますか?
繰り返しの話になりますが。お年寄りであっても実際にはお寺の行事には参加していないものです。年齢差による参加のハードルがあるように感じるかもしれませんが、実際にはそれは行事に参加したくないという言い訳の一つにしか過ぎないのではないだろうか。
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さいごに。お寺というのは行きにくい。
お寺は行きにくいのだろうか。
実際問題、お寺の法要に来ている人は非常に少ない。特に若い人は。
お金や物に溢れ、目に見える結果を求める社会になっているので、分かりにくい宗教というのは単に煩わしい存在なのかもしれません。
しかしお寺の僧侶という立場上、年配の人だけでなく若い世代の人にもお寺に参加して仏法を聞いてもらいたいものです。
ということはまずは宗教活動以外のことをしてでもお寺に来る人を増やさなければならないということです。
私はあえて「お寺というのは行きにくい。」という題をつけました。
しかし実際には「お寺というのは行く必要性を感じない」・「行く魅力を感じない」というのがより正しいのではないだろうか。