浄土真宗僧侶の釋克啓です。
日本には数多くの仏教宗派があります。伝統的なものだけでなく、新しいものもです。
お坊さん(仏教僧侶)も非常にたくさんいます。自称坊主もいるでしょう。
私は浄土真宗を宗旨としている真宗興正派の僧侶です。浄土真宗は日本で一番門徒(信者)の数が多いと言われています。それは農民(一般民衆)の心に刺さる教えだったからでしょう。
人間的な一般生活を営みながら阿弥陀仏の仏法を聞いて人生を充足できるのが素晴らしいのでしょう。私も浄土真宗は至極の教えだと思います。
さて私は浄土真宗は非常に素晴らしく感じるのですが、一方で浄土真宗のお坊さんに対して嫌いな点があります。だれか特定の人が嫌いなんだというのではなく、私自身を含めのことです。もちろん今から書くことは私が経験していることがもとになっているのですが、特定の誰かを批判したいがために書いているのではありません。
口では立派そうなことを言うけどれも、お坊さん、あなたは本当にしているのか
これが今回私の書きたいことです。批判したいわけではないのでもしも読むなら穏やかに見てください。
便利な世の中になったけれども……
今の時代は便利な時代になりましたね。
- 寺に行かなくてもお坊さんの話は見れます。
- 家の法事や命日のお勤めをしなくても口うるさく言う親戚はいません。
- インターネットを利用して自分の知りたい情報は手に入りやすい。
最近は寺離れだけでなく家族や地域コミュニティも希薄化していることでしょう。(家族そろって食事をしていますか。)
人間同士が直接出会わなくても自分の知りたい情報は手に入りやすいですし、寺や地域など守り伝えていく意識も乏しくなっていることでしょう。
自己責任・自由などと自分のことだけを構ってあげれれば、誰からも文句を言われない世の中になったのですから。(先祖、もっといえば父母であっても面倒をみなきゃなんて意識はないでしょう)
便利な世の中になったのですが、地域の財産、地域の信仰の場であるお寺はそれにともない面倒を見ようという人が減少しています。お寺に行かなくてもいいやと思っているからね。
便利な世の中になったのですが、仏法を聞いていこう・仏法を人生の支えとして生きていこうということが無くなり、障りの多い悩み尽きない人が増えている時代にもなっているでしょうね。(もちろん浄土真宗にであったからと言って悩みが無くなるわけではありませんよ)
宗教嫌いの人が増えているのだろうか。
私の話は余談が多くてよく嫌われます。何を言いたいのかわからんと。今もいらん前置きをしました。
今の時代は宗教嫌いな人がきっと増えていることでしょう。きっとね。
お坊さんにもいろんな人がいるので一概には言えませんが、他の宗教を否定・非難するお坊さんは少ないことでしょう。なぜなら救いや安心とは人によって違うでしょうからね。
仏教僧侶のお坊さんは自分の宗派のことに対しては深く学んでいますが、他宗については皆さんと同じくよく分かっていません。自分が正しい・他所は間違っているというのは宗教者としていかがなものでしょうかね。
さて宗教嫌いな人もいるでしょうが、何が嫌いなのでしょうか。
- 群れあっているのが嫌いだ
- 宗教で腹は満たされないのが嫌いだ
- 宗教で争いがなくならないから嫌いだ
- 目に見えない何かを信じようとするのが嫌いだ
なんてことが挙げられるんじゃないかな。
でもどうでしょうか。『この教え(教義)が嫌いだ』という理由で本当に嫌いな人はいないのではないでしょうか。
どれもこれも『何んとなしに嫌いだ・宗教なんて役に立たないんじゃないか』という曖昧な感覚で嫌っているのではないでしょうか。
人間というのは不思議なもので、嫌いなものや耳に痛い言葉は自分から遠ざけよう遠ざけようとします。しまいにはそれから拒絶し、それを非難しようとすらします。
お坊さんにとってはそれは辛いことです。
教えに出あえるチャンスはあるのに、教えにであおうとしないのは有難くないなあと。
私たちは信仰や信心があるから宗教にであっているのではないですよ。出あえる機会を有難いなあといただき、父や母や先人らがよろこび人生の支えとしてきた教えに私も聞きいただいているだけです。信心や信仰が先にあるのではなく、まずは出あうということが大切なのです。
宗教嫌いの人というのは、その家や地域の宗教的な教えや作法やイベントを受け継いでいないですし、当然その宗教の法に耳を傾けようとしたこともないでしょう。(聞いてても右から左に受け流しませんか。)
宗教嫌いが増えているかもしれません。それは残念なことです。
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人に言うことと違うことをするお坊さん
仏教会も改革という意識が目立ってきていることでしょう。
宗教嫌い・宗教離れだけでなく、各お寺が消滅の危機をむかえているからです。
日本には7万5千ほどの寺院数がありますが、そのうち2万強は住職不在の無住寺とも言われています。またお布施などの法務による寺院収入でお寺を護持運営することが難しい寺院が増えており、半数以上のお寺が別に仕事を持ちその兼業収入を寺院護持に当てているとも言われています。
お坊さんにも色んな人がいます。
- 自分のお寺はこんな立派なんだ。役に立つんだ。
- 人々に正しく教化できるのは私だ。
- 時代の最先端を進められるのは私だ。
なんて思っているお坊さんもいるかもね。なんせ今はインターネットの時代ですから、インターネットを利用するのは当然、紙や言葉の布教なんて遅れてんなと思っている意識高い系もいるかもしれません。
すると私もそうですが、自分のお寺のウェブサイトを持ち、ブログを通じて教え・考え方・作法などの情報発信をする僧侶も増えているように感じます。
行動しないよりも行動する人の方が素晴らしいのですが、好き勝手なことばかりをするのは私は嫌いです。(ようやく本題にたどり着きました)
私は『言うことは立派で、行動がともなっていない人』が嫌いです。
例えば人には、
- 浄土真宗はこんなお飾りをしますよ。それはこんな理由からです。
- 浄土真宗は追善供養しませんよ。だからこんなお勤めはしませんよ。
- 寺に来て仏法を聞きましょう。なぜならこんな理由があるからね。
と優れたお坊さんらしいことを言ったりしますよね。
浄土真宗は他の仏教宗派と比較するとやや特異な点もあるので、説明のしがいもあるでしょうが、人には得意げに自分は知っているぞという感じで説明するのにお坊さんあなたは本当に言っていることを正しくしているのですか。
人にはきれいごと言い、自分には甘くなっていないのか。
浄土真宗は聞法が大切です。それは浄土真宗は生きている人のための教えであり、南無阿弥陀仏の名号のいわれを聞き、お念仏・信心を仏様からたまわるためです。
しかしどうでしょうか。お寺の法要には付き合いのある他のお寺からお坊さんが読経にきます。しかし彼らは最後まで残り、ご法話を聞きいただいているのでしょうか。いや、ご法話を聞かずにそそくさと帰っているお坊さんばかりです。
人にはお寺に参って話を聞けよと言うのに、自分らは聞かずに帰る。
人には仏様に三具足五具足のお飾りをきちんとしましょう。と言いながら、自坊の法要では、正面のご本尊だけにちょこっと花を挿しただけの状態で、余間の高僧ら諸仏には花や蝋燭さらには御仏飯すら満足にお供えしていない。
人には盂蘭盆や施餓鬼や除夜の鐘は浄土真宗の考え方ではない。と言いながら、ちゃっかり通仏教にならって盂蘭盆会法要や中陰の七勤めをしている。(もちろん勤める理由?言い訳?はあるよ)
人には寺に参る時には門をくぐり一礼をすることと言いながら、自分は裏から門をくぐらず中に入り、さらには法要が無い時には門を閉じっぱなし。
人に言うことと自分らがしていることは違うではないか。
私はそれが嫌い。
もちろんお寺と少しでも接点を増やしてもらうために、出店・マルシェや音楽会のイベントや、寺でのヨガなどの教室利用をするのはいいでしょう。
でも人には立派なことを言いながら、自分は踏ん反り返って得意げな態度をしているのが私は嫌い。
最近では超宗派(ちょうしゅうは)というわけの分からないものもあります。宗派・超えるとはなんだろうか。
自分らの活動は素晴らしい、人には素晴らしいことを言う、本山トップの活動はいまいちと、熱心に自分らで改革するのはいいのですが、本山やトップを通さずに自分らで好き勝手にするのは過ちや勘違いを広めることにもつながる恐れもあります。
私はインターネットで出てくる情報が信用に足らないので、たとえお坊さんの書いた情報であっても鵜呑みにしません。(参考にはしますが)
実はつい最近もとあるお坊さんが書いたお飾りの作法がありました。しかしどう考えてもまた私の見聞きした経験に照らし合わせても自派の正式なお飾りとは言い難いところがありました。まあお飾りの仕方は地域によっても違うので一概に正しい間違いだといえないので、問合せはしませんが、インターネットで積極的に情報発信する僧侶は自分の教えが正しいのだと思って発信してはならないと思います。
それは活動でもそうです。
自分らは他のお寺がしていない時代の最先端の活動をしているのだと意識高く持つのはそれはそれで結構なのですが、まずは自らが仏教僧侶として本当に人に勧めている通りのことをしているのか振り返ってみてはどうだろうか。
私は山門が常に閉まっている寺が好きではない。私は法要でお飾りが不十分な内陣が好きではない。私はお布施を袖の下に通す坊さんが好きではない。私は勝手に参ってくれて結構ですという寺が好きではない。私は造花をあげっぱなしの本堂が好きではない。
愚痴はなんぼ言っても尽きないが、結局言いたいのは『人に立派なことを言う前に、お坊さんはあなたは本当に自分もその通りにしているのか』ということです。
自己顕示や意識高い活動をするのはいいが、門信徒あっての地域の寺であることを忘れてはいけないと思います。
今回もそうですが私は人に読ませる文章を書くことはしません。真剣に読んでもらいたいとも思っていないからです。それは私の言うことも的外れなことだったり共感されないことばかりだからです。
寺を取り巻く状況では、今後「生き残り」や「生存」などが話題になるかもしれません。そうなると若者受けする活動的なお寺や僧侶は役に立つ存在として有利かもしれません。しかしどうでしょうか、耳当たりのよい言葉・理想的な言葉言っている寺ばかりが残ってどうするんだと私は思います。インターネットでどれだけ情報発信しても人は自分の知りたいことをしか見ないのですから。
やはり家や寺の法事をしっかりして耳に痛い法話を聞く必要もあるでしょう。それは急にはできないことです。まずはお坊さんが率先して仏法を聞く姿勢を見せることが大事でしょう。
口ばっかりで仏さん参りの行動をできていないお坊さんを私は嫌います。自戒の意を込めて。