こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
先日私の曾祖母の60年目の命日のお勤めをしました。
今回の内容はその命日のお勤めをして感じたことです。
60年はあっという間。短いね。
60年目のお勤めということは61回忌ですね。(60回忌とは亡くなって59年目のお勤めやね)
当然私は生まれておらずまだ60年という年月を経験していませんが、いざ自分の人生を振り返ってみますとあっという間に過ぎ去っていったように感じます。
曾祖母が亡くなったのは私の父が赤ん坊だった時です。父から見ても60年という年月は短かったでしょうし、私から見ても曾祖母(そうそぼ・ひいおばあさん)という響きだけですと遠い昔の事、自分とは縁のないような印象を受けるかもしれませんが、父の祖母であり父の生まれていた時には生きていたことを思えばそんなに昔のようにも感じないでしょう。
曾祖母が亡くなった理由。
曾祖母が亡くなったのは戦後です。戦後30年代であり世の中がだいぶ安定してきた頃です。
曾祖母の年齢が66才であり、昭和35年の女性の平均寿命が70歳であったことを考えるとそれほど若い年齢ではなかったといえます。(今でいう高齢者ですね)しかし私の祖母は高齢者だったそうですが元気だったそうです。
ただお腹が痛くなり胆石を取り除く手術をしなければならないとのこと。
胆石を取り除く手術は一般的なことであり、曾祖母も「ちょっと行ってくるよ」と言っていたそうです。
ただ世の中何が起こるか分からないものですね。麻酔が効きすぎてしまいそのまま目が醒めずに亡くなってしまいました。今でいう医療事故ですがなぜ起きたんでしょうかね。(勝手な推測ですが専門の麻酔医師がいなかったのかもね)
母の帝王切開に思う。
医療技術の発達した現代でも医療事故であったり、予期せぬ症状が術後に出てくることがあります。
参考にしたサイト、水戸医療センターの『麻酔の危険性及び合併症』によりますと次の説明がありました。
(社)日本麻酔学会による麻酔偶発症例調査の1999年~2003年までの5年間の5,223,174例の結果によると、手術中に起きた偶発症による死亡率は1万例あたり6.78例で、そのうち麻酔が原因で死亡する率は0.10例(10万例に1例)程度です。
私の曾祖母が麻酔で死んでから50年たっても麻酔での死亡例というのはやはり出てしまいます。
10万例に1例ですから死亡する可能性はかなり低いですが、たいていの人はこう思うでしょう。「まさか自分には当てはまらないだろう・死なないだろうと」
でもお坊さんである私は思います。生きていることの方が稀。人間死ぬのはあっという間。ちょっとしたことで亡くなるもんだと。
思えば私は帝王切開で生まれてきました。
お母さんの背中から脊髄に麻酔をして生まれてきたわけでありますが、想像すると怖いですね。
もちろん脊髄にする麻酔は一般的であり術後の死亡例も聞かないので安全な施術なんでしょうが、世の中生きていることの方が不思議なもんです。
思えばお釈迦様のお母さん(摩耶夫人)もお釈迦様を産んで7日後に亡くなったとされます。
私がいま生きているのも有難いですが、お母さんが生きていることも有難いです。
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さいごに。命日のお勤めは50年で終わりではない。
日本では年忌法要という言葉があります。
仏教で使われる言葉で、一周忌(亡くなって1年目)から始まり、三回忌(亡くなって2年目)、七回忌、十三回忌、十七、二十五(地域によっては二十三、二十七)、三十三回忌、そして五十回忌があります。(以後五十年毎)
この節目の年に故人(亡くなった人)を偲び、仏縁に出あう大切な機会をいただくのです。
しかし故人を偲ぶのは何も年忌法要の時だけではないですよね。毎年その人の命日はやってきます。
その命日のことを祥月命日(しょうつきめいにち)と呼びます。
法事法要ほどは盛大にお勤めしないまでも、家族そろってお仏壇にお参りをして亡き人を偲びます。
最近では亡くなった人を偲ぶことをしない家庭が増えてきたように感じます。偲ぶという漢字は人を思うと書きます。仏法を一番身近に感じられるのは亡き肉親、自分のご先祖にあたる人のご苦労に思いを馳せることです。
誰も自分一人では生まれてきていませんし、一人で大きくなり一人で生きていっているわけではありません。
そんなの分かっているという人は知識としてわかっているだけで、心からわかっている・うなずいているわけではないでしょう。仏法に出あうというのは有難い命であったということに気が付いていくということです。
そのことに気がつくご縁となるのが命日のお勤めなのです。
これだけの間、命日のお勤めをしたからもう十分だろうではなく。命日のお勤めに終わりはなく、自分を支えてくださったお礼参りとして、自分のためにお参りするのです。