こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
皆さん一般の人もご存知でしょうが、明治時代以降、日本ではお寺の住職とはお寺の子息が跡を継ぐことが多くなりました。
浄土真宗では明治時代以前でも世襲が一般的だったのですが、現代では「お寺=世襲制」というイメージが定着してしまったのではないでしょうか。
本当は世襲制ではないのですが、真宗以外のお寺も明治時代以降に子息が跡を継ぐことが一般的になってきたので、お寺の僧侶はお寺の人間でないと駄目だと勘違いしている人もいるのではないでしょうか。
よくよく考えてみますと、神社で神職に付いている人はどうなんでしょうか。あちらも世襲でしょうか。
お坊さんとお寺さんは違うのか。
僧侶の呼び方の一つ、お坊さんとお寺さんの違いはあるのでしょうか。
以前お坊さん(僧侶)の呼び方についていろいろと紹介したのですが、この問題については触れませんでした。
お坊さんの中にもお坊さんとお寺さんの呼び方に違いはないと考える人もいるでしょうが、私はこの二つの言葉は違っていると思いますし、この言葉はお寺の跡取りについて考えるキーワードの一つになると思います。
この二つの言葉がどちらも僧侶を指しているのは間違いないです。
しかしなぜ僧侶をお寺さんと呼ぶのでしょうか。
それはお寺の僧侶(お坊さん)とはお寺を守っていく役割があるからではないでしょうか。
真宗のお寺には阿弥陀様を安置しているお堂以外に、僧侶が生活している建物(庫裏)があります。
つまりお寺に住み込んでいるお坊さんがお寺さんと言われていると私は考えます。
お寺さんという言葉が示す意味とは。
例えばですが神社の人、例えば神主さんのことを神社さんとは言いませんよね。(言ってたらごめんないさいね)
しかしお寺の僧侶はお寺さんと言いますよね。
これがお寺の実情を示しているのではないでしょうか。
実はお坊さん(僧侶)になろうと思えばどなたでも成ることができます。宗派によって難度の差はありますが。
僧侶になるのは仏門に入らなければならないと難しく考えるかもしれませんが、僧侶になっている人でも「この人本当にお坊さん?」と疑問に思う人もいるでしょう。
案外僧侶の資格を手に入れるだけなら簡単だったりします。
宗派によって表現は異なりますが、一般的には「得度(とくど)」や「受戒」といいますね。真宗では得度です。
各宗派の御本山が行っている得度という試験を受け合格すること(ちょっと違いますが)で、各宗派が独自に決めた僧侶になることができます。
ここから少しややこしい話になります。
例えば真宗興正派を例に挙げますと、僧侶になるためには本山の得度を受けなければなりません。
- 得度許可を受けるにはどこかのお寺の住職の同意書が必要になります。
- 次に得度習礼(しゅらい)を受けます。砕けて言いますと僧侶になるための基礎的な授業です。
- その次に得度考査を受けます。砕けて言うと試験です。
- 得度考査を通過した人が得度式を受けることができます。得度式とは僧侶となる誓いをする儀式です。
- この得度式をご門主様より受けますとその宗派の僧侶となります。
ここで注意しないといけないのが得度を受けるのは別にお寺の人間でなくてもいいということです。(ただしお寺の住職の同意書は必要です)
しかし僧侶の籍を本山に登録しようとすると、どこそこの寺院(or教会)に所属しなければなりません。
つまりお坊さん(僧侶)になるということは必ずどこそこのお寺に所属しており、そのお寺を守っていく必要があるということです。
神主不在の神社はたくさんありますが、僧侶不在のお寺というのはそうそうないはずです。
しかし最近では僧侶の中にもお寺に住み込んでおらず、他の場所に住居を構え、自坊に出勤している人もいます。
つまり私が言いたいことは、寺院を護持し続けている僧侶のことをお寺さん、お寺に所属しているだけの僧侶をお坊さんと言えるのではないでしょうか。
お寺さんはなぜ世襲が一般的なのか。
回りくどくなりましたがこれから本題に入ります。
私はタイトルで「お寺さんは世襲が基本」と言いました。
しかし「お坊さんは世襲」と言っていません。
お坊さん(僧侶)になろうと思えば宗派によって難度の違いがあれども、どなたであろうと僧侶になることができます。
しかしお寺さんになろうと思えば大変です。
なぜならその寺院を守り続ける責任があるからです。
お寺と言うのは仏様を安置するお堂があり、その宗派の教義・作法などを伝える僧侶がおり、お寺を支えて下さる門信徒・総代世話人そしてそれをまとめる代表役員の住職がいて、門信徒との過去から未来・現在に続く永代のお付き合いをしていきます。
特に真宗のお寺さん(僧侶)というのは一般の人と大きな違いというのはほとんどありません。お念仏の教えを門信徒とともに頂いている仏弟子の一味です。
ただお寺を護持運営をしていく重要な指名をいただいています。
むかしのお坊さんは宗教活動以外にも、お寺を寺子屋と表現していたように様々な文化発信の場であり、教養のある人でした。しかし現代では専門の職として生業としている人が増えたためお寺の役割ではなくなってきています。
繰り返しますが、お寺さんとは寺院・教義を守り伝える使命があります。そしてそのお寺と今までお付き合いしてくださっている門信徒といわれる人たちがいます。
お寺の代表役員である住職とは世襲なければならないわけではありません。
しかし今まで何代にも渡ってお寺をお守りし続けている僧侶家系ですし、住職の子というのは幼いころより近くで仏事法要に接しているため一番お寺のことが分かっているとされています。
他から一般の方や新たなお坊さんがやって来ることよりも、お寺の子が代を継いだ方が安心できるという作用が働いていると思われます。
安心できるとは今までのことも含めてのこれからのお付き合いや、このお寺や檀家そして地域の風習をどれだけ知っているかということです。
もしもこれからの世で、お寺に住み込む僧侶(お寺さん)が減り、他所からお寺に通う僧侶(お坊さん)が増えるのであれば、世襲である必要性が薄れていくと思います。
良くも悪くも世襲制。
ここではあえて世襲制と言っていますが、日本国には世襲制という法律は存在しませんね。
例外として日本国憲法第2条に皇位の継承が世襲であるとされているだけです。
ですからたとえ議員さんや歌舞伎役者、神主や僧侶などが世襲制だと言われていてもそのような法律は存在しておらず、結果として世襲が多い、世襲が当たり前みたいな印象から世襲制と言われているだけです。
世襲の良いと思われるところ。
世襲の良いとされている所は安定性・安心感によるところが大きいと思います。
日本仏教はどちらかと言えば、世俗のため・民衆のための仏教です。
日本では長期に維持され続けている出家者集団というのは無いと思います。必ず一般の人との生活に接し、世俗と隔絶していないはずです。
繰り返しになりますがお寺さんとは寺院を維持することが使命のひとつです。
お寺を維持することは御門徒さんの支えも必要ですが、金銭が絡んでいく運営も必要になります。
お堂の修理であったり、境内の清掃、仏具や雑品の修繕、法要などなどでお金がかかってきます。
お寺が世襲であれば、今までどのようにこのお寺を維持してきたか理解していますし、総代世話人によって住職のおかしな・危険な行動に助言することができます。
また世襲によって後を継ぐには子供が必要です。すると家庭を持つ必要がありますし、生活面でも地域と関わる機会が増えていきます。
このような点から世襲によってお寺を維持することは、その地域・そのお寺にとって常識はずれでない安定した護持運営ができることにつながっていくと思います。
言い方を変えれば伝統を守っていくことができることです。
何よりお寺の子は一番仏教に接しているため、幼少期よりお寺・仏教に対する知識を持っていたりします。
世襲の悪いところ。
世襲の悪いとところはやっぱり時には大した人物でない人が現れることですよね。
それは世間知らずの場合もありますし、苦労をしらないということもあります。
酷い場合にはお寺を私物化のように扱っていることもあります。
世襲ではないのに、「自分の将来は○○だ」なんて思っていたり周りに得意そうに言っているのをみるとため息しか出ません。
偏見ですがそういう人はチャランポランな人だという印象です。
本当であれば周りの人からの跡取りという期待もあって、人よりも熱心に取り組まなければならないのに、将来の職が確保できていると勘違いして学生時代に真面目に学業を積まない、お寺の仕事にも取り組まない、門信徒とのお付き合いにもかかわらなかったりと散々なケースもありえるでしょう。
自分が人よりもえらいんだと勘違いする場合もあるでしょうし、人の意見・助言に耳を貸すのが難しくなることもあり得るでしょう。
お寺というのは、お寺さんという人がこれからも門信徒との支えがあって維持していくものであり、住職の独断で決めていくものではありません。そのお寺を任されている自負をもって、周りの人と共に守っていかなければなりません。
広告 - Sponsored Links
さいごに。世襲が難しくなるでしょう
世の中では世襲を極端に嫌っている人もいるでしょう。
もちろん世襲の悪い所が目立っていますが、世襲だから良く作用していることもあります。
しかしお寺の世界ではこれから世襲によりお寺を維持するのが難しくなりつつあるでしょう。
それは単にお寺の跡取り息子がいないと言うだけでなく、お寺を支えて下さっていた門信徒の減少もあります。
どうしてもお寺の維持には結構な資金が必要になってきます。
多くのお寺は僧侶以外に職を持ち、他からの給料を得て生活をしています。
そのためお寺の子が遠くに働きに出て、50・60歳にもなり自坊に戻る機会を失っている場合があります。
また戻っても生活ができない場合もあります。
本山には住職不在の寺院には僧侶を派遣する仕組みもあったりしますが、実際には他所から僧侶が来にくい環境です。ご門徒の人も今までお付き合いしてきたお寺さんとは違うお坊さんが来た場合には、安心してお付き合いができなかったり、僧侶からも地域の習俗・お寺の護持運営が分からなかったりと苦労をします。
僧侶が既得権益によって世襲が当たり前みたいに思われているでしょうが、お寺が持つ権利になんの利益がついてくるのでしょうか。お寺のお金は宗教法人によって管理され、僧侶は給料によって生活しています。
もしも葬儀社や花屋・石屋などからバックマージンや紹介料があると思っているなら誤解ですし、そのような僧侶は守るべきお寺もご門徒さんもいないお坊さんでしょう。
もちろん私のお寺でもご門徒さんから「どこそこを使えばいいでしょうか」と聞かれれば複数個候補を挙げますし、紹介された会社の方からお礼の電話はかかってきますよ。しかしそこに金銭の授受は出てきません。
お寺の世襲と既得権益は全く無関係です。