僧侶のかっけいです。
世の中には菜食主義と言われる人たちがいます。
人間は雑食動物です。魚や肉、穀物や果物や野菜などなんでも食べます。
しかし菜食主義者(ベジタリアンとも表現)は魚介や肉といった動物性食品を食べないように心がけます。より厳しい人たちは、卵・乳製品・蜂蜜といった動物の副生成物、骨や皮といった副産物を食べることを避けます。さらにはお茶やコーヒーやアルコール飲料までも。
菜食主義となる理由は様々ありますが、おそらくは動物を殺して食べることに抵抗感を感じるからが一番の理由でしょう。生き物の命を殺すこと・奪うことに対して、罪の意識も生じるのだろう。
その他にどんな理由があるだろうか。
- 宗教的な理由
- 倫理的な理由
- 哲学的な理由
- 環境的な理由
- 文化的な理由
加えて現代では、健康食やダイエットといった健康志向的な理由(動機)でも菜食を心がける人が増えているだろう。
さて菜食主義にも様々な分類があります。これは食べてもOK、でもあれは駄目と。乳菜食者・卵菜食者・魚菜食主義者などとかなりの種類分けがあります。
それぞれの分類方法がありますが、私が思うにフルータリアン(果実食主義)こそが食べられる命と食べる人の利害が一致した食事スタイルではないだろうか。
注意点として、私はフルータリアンを勧めているわけでもないですし、フルータリアンが仏教的な考えだとも主張していません。
命を奪うことに抵抗を感じる菜食主義の中でも、果実食こそが最もふさわしい考えではないのかなあと感じているだけです。(ちなみに私はベジタリアンでもフルータリアンでもありません。なんでも食べます)
果実は食べられることを望む
動物を殺して食べるのに抵抗を覚える人がいます。
なら植物はどうだろうか。彼らだって「食べないでくれ。切り刻まないでくれ」と叫んでいるのかもしれない。
ベジタリアンは動物を傷つけていなくても、植物を傷つけていることは間違いないでしょう。であればベジタリアンの食事スタイルも他の命・エネルギーをもらっていえます。
しかしどうでしょうか。果実だけは「ぜひ食べてくれ」と植物が私たち食べる生き物に対して望んでいます。果実だけは例外なのです。
果実は栄養価を高くしたり、色あざやかにしたり、あまい香り・強烈な匂いを放ったりと、果実を食べてもらうように努力しています。
果実の中には種子が入っています。
動物が果実をもぎとり果実を食べ、種を遠くに運ぶ。この行為は植物が望んでいることです。
葉っぱや根っこは植物が生きていくために必要です。食べられたくないはずです。
ベジタリアンは植物にとって大切な葉や根を食べます。しかし果実は食べられることを望み、遠くまで種を運んでほしいのです。果実食は植物が喜び、食べられるものと食べるものが双方の利害が一致した食事スタイルです。
なお、果実にはリンゴや梨やアボカドといった果樹果実と、トマトやキュウリといった野菜果実があります。どちらも果実食ですね。
一部の果実には毒をもつものもあります。動物による種子散布よりも優れた方法を持つからや、一度に大量に食べられるのを防ぐためなどと考えられています。
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余談。仏教的になぜ他のいのちを奪ってはいけないのか
さて以上で、種子を遠くまで運んでもらいたい果実食こそが、植物が望んでいることであり、フルータリアンの食事スタイルこそが食べられる命と食べる生き物の思いが合致していると書きました。
しかしこれだけだと、お坊さん的にどうなんだと言われそうなので、余談として、なぜ仏教では他のいのちを殺してはいけないのかについても説明します。
なお「命」とせず、あえて「いのち」の表記でも説明していきます。
しばしば『命を奪ってはいけない・殺してはいけない』というときに問題となるのが、「いのち」を「命」と物にして扱ってしまっていることです。
私たちは自分の命だと思っているかもしれません。どうでしょうか、おそらく多くの人は自分の命は自分の物だと思っていることでしょう。また他人の命(他の生き物の命)だとも思っているでしょう。
でも考えてみてください。
私たちは誰一人として、自分のいのちを作った人はいません。
そろそろ生まれようか、あそこに生まれようか、なんて考えて生まれた人はいないはずです。
気がついたら生まれていたはずです。気がついたらいのちをいただいたのです。
いのちは与えられたものであり、誰のものでもない。だからいのちは奪ってはいけないのです。
『自分も相手も命を奪われたら殺されたら困るでしょう。大事な命、取り返しのつかない命でしょう。だから殺さないの』だと答えるのは仏教的にはおかしいです。
いのちというのは殺すことができない、奪ことができないのです。いのちのやりとりではないからです。それぞれのいのちが与えられたものであり、私たちが勝手に奪う奪わないと決定することはできないのです。
いのちに理由はありません。いのちだから殺してはいけないのです。それがいのちなのです。いのちに理屈をつける必要はないのです。
もっと簡単に言いましょうか。
私たちには親がいますよね。
私のいのちは両親から与えられています。その両親も両親から与えられています。さらにその両親もです。
いのちというのは急にできたのではなく、大きな途方もないいのちの流れがあるのです。いのちは限りなく伝わっているのです。いのちは量ることができないのです。
その一部のいのちは私のいのちです。だから私のいのちであっても私のいのちではないのです。
一部分が私のいのちです。だからお互いにいのちは敬いあうのです。
いのちというのは互いに敬うものです。
仏教では「南無」という言葉があります。あれはインドのナマス(ナマステ)の「心から敬う」の意味があります。
インドでは誰かに会うと見知らぬ人でもナマステと拝みます。
それはその人が立派だからとか、知った人だから挨拶しているのではありません。
誰であっても拝むのです。なぜかと言ったらいのちを拝んでいるからです。
この私と同じいのちをいただいているから、そのいのちそのものを敬っているのです。
いのちは与えられたものであり、敬うしか方法がないのです。