甲子園高校野球を見てお坊さんが思う。悲願・本願の意味が安っぽい事

こんばんは。 香川の真宗僧侶のかっけいです。

8月のただいまは夏の甲子園、高校野球が盛り上がっていますね。

地元香川県の三本松高校も24年ぶりに夏の甲子園に出場し、悲願の初勝利を収めました。

お坊さんである私はスポーツをテレビで見るといつもある言葉に違和感を覚えてしまいます。

その言葉が、「悲願(ひがん)」と「本願(ほんがん)」です。

よくスポーツニュースや監督インタビューなどで安易に「悲願のメダル」や「悲願が叶いました」や「本願成就しました」などと使われているのですが、本来の意味はそんな簡単な思いでは使えないような言葉なんですよ。

というわけで今回は、お坊さんが「本願」と「悲願」の意味について説明します。

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悲願と本願の言葉の意味を辞書で確認。

悲願〘名〙

①仏語。仏菩薩が大慈悲から発する誓願。阿弥陀仏の四十八願、薬師如来の十二願などの類。

本願〘名〙

①本来の願い。もとからの誓願。本懐。

②仏語。仏菩薩が過去世において、衆生を救済するために起こした誓願。阿弥陀仏の四十八願、薬師如来の十二願など。本誓。

日本国語大辞典ー第二版ーより

上のように本願や悲願というのは元々は仏様から私たち人間に向けた願いなのですが、現在ではその意味で使われることが減り、本願や悲願の願いが人間目線の願いに変化し多用されています。

悲願や本願はどういう願いなのか。

仏様からの悲しいまでの願い。

悲願や本願は私たち人間を救うために仏様がたてられた願いのことです。

仏様というのは大慈悲の心を起こした存在のことです。

大慈悲というのは難しい言葉なのですが、簡単に説明すると、悩みや苦しみの中に生きている人を救わずにはいられないという慈しみあわれむ心のことです。

仏様とはただ悟りを開かれた存在ではなく、自ずと人々を救う心が起き上がってくるとされています。(それぞれの仏様にはそれぞれのお浄土があり、人々を救うための願いをたてられいます)

悲願や本願には阿弥陀仏の誓われた四十八個の願い(四十八願)が一番有名でしょう。

阿弥陀仏も仏となる前は法蔵という菩薩であり、どのお浄土よりも優れた浄土世界を建立することを目標にしました。

それは人間というのが多かれ少なかれ必ず悩みや苦しみや悲しみを抱えて生きているのに、そのことについて向き合っていないから。

本当は人は苦しみや悲しみをもっと悩み・もっと悲しまないといけないのに、目先の出来事に惑わされちゃってまったく気が付いていない状態が仏様にとって哀しいことだから。

それは例えるなら、医者(仏)と患者(人)の関係です。

医者から見れば患者の重大な病気・症状に気が付いており治さないといけないですよと呼びかけているのに、当の患者は大丈夫大丈夫と事の重大さに気が付いていない。そして取り返しのつかない状態になって、「どうして私だけ」、「どうしてこんなことに」と不満や愚痴が出てくるのです。

仏様から人間を見ると似たようなことが言えます。

人間は苦しみや悩みにもっと真剣にならないといけないのにそれに気が付かずに死んでいこうとします。仏様はそのような状態を憐れみ、人々を救わずにはいられないという悲しいまでの願いを誓われたのです。

人間目線の願いとの違い。

人間が使っている願いというのは仏様の願いと比べると程度が低いですね。

人間の願いとは、どこまで行っても自分本位の願いです。

自分の欲望が満たされることが一番なのですから。自分の思い通りの結果になれば、相手が負けたり傷ついたとしても、取るに足りないことにします。

例えば受験というのがありますね。

人間は勝手なもので合格祈願の願掛けが受験シーズンが近づくと各地で行われますが、その心というのは「私は試験に受かってほしいが、他の人はどうでもいい。もっと言えば、落ちてほしい・滑ってほしい」と自分勝手な思いです。

人間が使う悲願・本願とは自分の欲望が満足することのみに重きが置かれています。

しかし仏様の悲願・本願とは、人間の苦しみ・悲しみが仏自身の苦しみ・悲しみとなる自他平等のこころを表しています。

本願や悲願はとんでもなく長い時間を願われた願い。

スポーツや政治の場面では悲願達成・本願成就という言葉が使われます。

もちろん悲願には悲壮な願いという意味もあり現代では間違った使い方ではないのですが、もともとの意味では仏や菩薩の人間を救うという願いのことです。

人間が使っている願いと違い、仏様の本願や悲願というのはとんでもなく長~い時間をかけています。

例えば浄土真宗では阿弥陀仏がご本尊です。

阿弥陀仏が法蔵菩薩と呼ばれる菩薩の時に師の世自在王仏により210億もの浄土世界をご覧になり、それから五劫(ごこう)の間、考え修行をしあらゆる人々を救うことができる極楽浄土をの願いをたてられたのです。

劫(こう)という時間単位は様々な譬えがあり、例えば、横幅四十里・高さ四十里・奥行き四十里の大きな岩石があり、100年毎に降りてくる天女がその羽衣で一度だけなぞり、少しずつ岩を削っていきます。そしてその岩石が天女がなでることにより消滅する時間よりも長い時間を1劫とカウントします。

つまり阿弥陀仏が人々を救うために願われた本願・悲願とはとんでもなく長い時間の1劫の5倍という途方もない間、思い続けた願いであり、私たち人間が願うせいぜい数十年・百年の願いとはレベルが違うのです。

さいごに。といっても悲願・本願は当たり前に使われている。

悲願や本願とは本来は仏様が私たち人間に向けて誓われた願いのことです。

しかし現代では本来の意味とは別の意味で使われています。

もちろん言葉は変化していくものなので、新しい意味が追加され広く使われるのは仕方のないことのないのですが、大切なのは元々の意味も正しく知るということです。

近頃では他力本願という言葉も間違った意味で使われています。(他人任せの意味で)

しかし本願とは仏様の願いなので、「本願=他力本願・本願他力」なのです。

もうね。誤った意味で広く使われている言葉というのはお坊さんや識者が本来はこのような意味ですよと説明しても歯止めが利かないのです。

仏教用語が日常生活の中でごくありふれたものになったと考えれば喜ばしいことなのですが、一方で宗教心が薄れ、仏教的には非常に尊く重要な言葉であっても何も感じることなく誤って使われるようになったのは悲しいことです。


まあ実際、仏教用語は非常に難しいですし、知ってるか知らないかという知識的なところがあります。

例えば、有学(うがく)と無学(むがく)があります。

一般的には、有学とは学問を学び知識がある人のこと、無学とは学問や知識が足りないこと、すなわち無知の意味合いで使われます。

しかし仏教用語としては逆の意味で、有学とはまだ学ぶ余地がある人のこと、無学とは学ぶべきことがなくなった境地のことをさします。

ですのでお坊さんが学問が足りないなあと表現するなら浅学(せんがく)という言葉を使ったりします。


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悲願に代わる言葉を紹介。

悲願や本願とは仏様が人々に向けて長い間をかけて誓われた願いのことです。

ですので人間が使う言葉では本来ありませんし、自分勝手な願いとして使われています。

しかし悲願や本願という言葉を使えば、どうしても勝ちたかったんやどうしても成功したかったんやという自分の思いを強く表現できる気がしてしまいます。

そこでお坊さんである私が悲願や本願に代わる言葉を一つ紹介します。

どうでしょう。念願(ねんがん)という言葉は。「念願の勝利」・「念願のメダル」もいい響きでしょう。

念願とは、常に心にかけて強く願うこと・かねてからの願いという意味です。本願や悲願と似たような意味ですが、仏様の願いではなく人目線の願いになります。

(ちなみに祈願(きがん)とは神仏に願うことなので念願よりも使いにくい言葉なのでお勧めしにくいです。)

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