こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
お坊さんって大抵の場合お寺の敷地内で住んでいますよね。
お寺にはお墓があるケースも多いですね。
そうすると、こんな質問をされます。
『お墓の横で住むのって大丈夫なの?』
『幽霊やお化け見ないの、怖くないの?』
『お墓の側に引っ越すのやめた方がいいかな』
なんて聞かれます。
要はこんなことが気になるそうです。
『お墓ってお化けがいるんでしょ。お坊さんはすぐ近くに住んでいるのに怖くないの。』
ということです。
今回はお坊さんとお化けの話です。
僧侶はお化けが怖くない。
私(僧侶)はお化けなんて全く怖くないんですよ。
「お化け?」何それ。って感じです。
こんなことを言うと否定的なことをいう人もいるでしょう。
「えっ!?私は僧侶だけどお化けは怖いし、夜にお墓に行くこともできないよ。」
「あそこのお坊さんはお化けが怖いし、いるかもしれないって言ってたよ。」
という人もいるとは思います。
まあ、お坊さんにも色んな人がいるから、
お坊さん全体がお化けが怖くないっていうのは誤りでしょうね。
ひょっとしたら私のようにお化けが怖くないっていう方が少数かもしれません。
「お化け・幽霊」なんていませんよ。
お化け・幽霊が怖いって感じているだけでしょ。
あなたは本当にお化け・幽霊を見たことありますか。
「光が見えた」や「人影がみえた」、「体がつかまれた」というのは大抵科学的に説明がつく事象です。
宗教をもとに生きているお坊さんが科学を根拠に出すのはおかしいと思わないでくださいね。
科学と宗教は対立していませんし、科学とは宗教の正しさ(・過ち)を示す別の見方です。
仮に光や人影・顔が浮いている、足首を掴まれたという人もいるかもしれませんが、それであなたはどうなりました。何もないでしょう。
じゃあ、お坊さんは怖くないの?
『怖いです!!』
いやいや、さっきお化けや幽霊は怖くないって言ってたじゃないですか。
矛盾してるぞ!!
私もですね、夜真っ暗な中でお墓を歩くのは怖いですよ。
それはお化けや幽霊が怖いのではなく、闇(やみ)が怖いのです。
そして実はお化けが怖いと言っている人も、実は闇を恐れているのではないでしょうか。
仏教ではその状態を、無明と表現しています。
闇とは無明のことである。
無明とは本来難しい言葉ですので、ここではかみ砕いて説明します。
例えば、昼間の明るいときにお墓を歩いていてもそれほど怖くはないでしょう。
しかしこれが雨の日といった薄暗い日や、人気がないとき、または夜の足元や目の前がはっきりと見えない状態になると急に恐ろしく感じてしまいます。
それは山登りでも同じでしょう。
歩きなれた山道でも、風が強く木々がざわざわとこすれる日に一人で歩いていると何となしに恐怖を感じるものです。
これらの恐怖を感じることは人として自然なことです。
現代では人工的な光に溢れた生活をしています。
そのためより光のない場所が怖くなっているのではないでしょうか。
明るいときにお墓に行こうが暗闇の中でお墓に行こうが、そこにあるのは石とお骨だけです。
しかし人間が捉える感じ方が変わってくるのです。
感じ方が変わるとはどういうことか。
人間というのは、主に五感という感覚器官で多くのことを把握しています。
その中で視覚というものが8割以上を占めているとも言われています。
暗闇の中ではその視覚が大幅にシャットダウンされてしまいます。
そうなると心に不安というものが生じてしまいます。
心が一度不安を感じてしまうと不安が不安を招いてますますエスカレートしていきます。
その状態を「疑心暗鬼を生ず」と言います。
昔の人は的を射た表現をしていますね。
例えば昼間に窓の外からコンコンと音が鳴っても、「何かな?鳥でも手すりに止まっているのかな?」っと思うでしょうが、夜に物音がすると、「なんで外から音がするんだ!」と不安になることもあります。
同じ音でも感じ方で捉え方が全く変わってくるのです。
そこにお化けがいるから怖いのではなく、何があるのかを感じることができない(目で捉えられない)から怖くなっているのです。
まとめ
- お化けや幽霊は怖くない。怖いと感じているだけ。
- それは感覚として捉えるのが難しくなっているから。
- 僧侶も暗い中を歩くのは先が見えないから怖いのです。
仏教ではお化けをどのように考えているのか。
ここではあえてお化けではなく、幽霊(霊)という表現にします。
そもそも仏教では幽霊・霊魂という考え方は無かったとされています。
しかし人間だれしも亡くなった後、体から離れた魂というものがあるのではないかと考えることでしょう。それがお化けや幽霊、妖怪という発想になるのでしょう。
お釈迦様の時代にも似たような質問をされた方がいます。
そのときのお釈迦様の答えは無記と呼ばれています。
無記の評価のされ方はいろいろあります。
お釈迦様が答えられない問いから逃げたと考える人もいれば、全く役に立たなく気にする必要のない考え(問い)ですよと考える人もいます。
要は証明できないことをあれやこれやということではないということです。
仏教に親しみのない方は何言ってんだと突っ込みが入りそうですが、これが仏教の考え方です。別にお化けを考えてもいいですけども、仏道とは全く関係ないことですよと言われているのです。
では一僧侶として、お化けをどのように捉えるのか。
お化けとは概念ではないでしょうか。
私はここではお化けはいないと意思表示していますが、反対される人も多数いるでしょう。
科学的に証明されていることが多いといっても、されていないことや幽霊の被害にあったという人もいるでしょう。また除霊師という人はどうなるんだということもあります。
人間だれしも暗闇に放り込まれますと不安になります。
そうなると見えないものでも見えた気になります。
それがやがて精神の不安から体調の不安になります。
しかし考え方を変えてはどうでしょか。
何かを恐れる気持ちは今の私を映す鏡である。
先ほどから繰り返し同じようなことを言っていますが、暗闇になると体が感じ取れる量が減ることから心の中に不安が生じ、それが膨れ上がることで見えないものが見えてきたように感じます。
現代では科学で物事を捉えるのが大人気で、お化け・幽霊・妖怪がいるかいないのか、心霊写真は本物なのか偽物なのかと話題に事欠きません。そしてなかなかはっきりした解答はでてきません。すべてのあらゆる現象を証明することはまだ科学ではできないからですね。
ですから私はこのお化けを「あいまいな事柄」だと考えるようにしています。
世の中はあいまいなことだらけです。
あいまいなことをいい方向に捉えられるか、あまりよろしくない方向に捉えられるかは人それぞれです。それをいい方向に向かわせるのが宗教です。
お化けが怖いと思うのでしたらそれは怖いでしょうし、畏怖の対象になります。
しかしお化けがいてもいなくてもいいじゃない、と感じれば恐怖は感じなくなります。
あいまいなことで言えば、私たちの人生もそうです。
先がどうなっているのか分かっている人はいないはずです。
しかし気にせず生きている人が多いです。
そして何かあったときに「まさか」や「どうして」といった言葉がでてきます。
このこともまさに無明の状態です。
真宗には次のような言葉があります。
「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。」
親鸞『顕浄土真実教行証文類』総序(『真宗聖典』)より
簡単に意味を説明すると、何ものにもさまたげられることのない阿弥陀仏のひかり(光明)は、真実の智慧がない人間の闇を破る太陽だという意味です。
要は自分の中で芯になる・支えになるものが必要だということです。
お化けや幽霊を恐れて生活するかは人それぞれです。
しかし目に見えないものを恐れ、それに左右される生き方というのが本当に人の生き方としてよいものでしょうか。その中で私を支えくれる教えに出遇い、暗闇の中ではだれもが不安を生じるものだと理解できるのであれば、幽霊というつまらない概念を超えることができると思います。
つまりお化けとは鏡のようなもので、お化けを感じる人は自分の中に不安を感じる心が生じやすく、そうでない人はお化けといった概念にとらわれない生き方ができる人だと思います。
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さいごに
お墓に行くのが怖いと感じる人は多いと思います。
夜にお墓に行ったらよくないことが起きるんじゃないかなと考える人もいると思います。
しかしそんなことはありません。
ただの気のせいです。
しかし私も夜に外に出歩くときは懐中電灯を持っていきますよ。それはお化けが怖いんじゃなくて、蹴つまづいたり、物にぶつかりたくないからですね。
灯りのない時代は外では昼間のようにまともに歩くことができなかったですし、今よりも野犬などの野生動物がいて用心が悪かったのです。ですので門限を作り外を出歩かさないようにしていました。そこでの戒めが幽霊やお化けといった目に見えない概念でした。
もともとは人間が説明できない超自然的現象から、理解を超えたことを説明するために考えられたことです。
自分自身の中で確かな考えをもつこと。
そのことが人生を豊かにする生き方になるのではないでしょうか。