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寝ている時も起きている時も「南無阿弥陀仏」を称え・・・られますか?

こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。

真宗教団連合は毎年法語カレンダーという毎月ちょっとした法語を載せたカレンダーを発行しています。

2017年10月の法語は次の通りです。

法語カレンダー。真宗教団連合。

ねてもさめてもへだてなく

南無阿弥陀仏をとなうべし

All should say Namo Amida Butsu constantly, whether they are awake or asleep.

素直に読めば、「ふむふむなるほど。寝ている時でも起きている時でもどんな時でも、南無阿弥陀仏と念仏を称えるべきなんだな。」と理解するのでしょうが、ちょっと待ってください。

『ねても』つまり寝ている時はお念仏は称えられないんじゃないかなあと、ちょっと思いませんか。

非常に難しいことをこの文章はさらりと書いています。

今回の内容はこの法語について思うことを書いていきます。

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法語「ねてもさめてもへだてなく」の引用元の和讃。

今月の法語は親鸞聖人が85歳の時にまとめられた和讃の一つ『正像末和讃』より引用されています。

弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし

正像末和讃とは末法の世に生きている凡夫が救われる阿弥陀の教えを讃える歌という意味あいです。

上の和讃全文は、「阿弥陀仏のあらゆる人たちを救いとるという大慈悲の誓いを深く信ずる人は、全員寝ているときも起きている時もただ南無阿弥陀仏の念仏を称えなさい」という意味になります。

非常に難しい文章ですね。

意味は分かるのですが、例えばまず、阿弥陀仏の誓いを深く信ずること自体ががまず難しいことですよね。

さらには深く信ずることができる人は寝ても覚めても南無阿弥陀仏を称えるべきだそうです。難しそうに感じますね。

しかしこの和讃は晩年の親鸞聖人が阿弥陀仏の本願念仏のはたらきによってこの私が救われたという気持ちを表したのでしょう。ですのでなかなか阿弥陀仏の大悲に気付けていない人には、素直に「はい、そうですね。」とはいただけないのでしょう。

蓮如上人の御勧章(お文・御文章)にも似たフレーズがある。

末代無智章より、寝ても覚めても。

かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。

第五帖 第一通目より引用

ご勧章より、寝ても覚めても。

尊く思いたてまつらん心の起こらん時は、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、時をもいわず、所をもきらわず、念仏申すべし。

第五帖 第四通目より引用

「ねてもさめてもへだてなく」とは何を意味しているのだろうか。

親鸞聖人は阿弥陀仏の本願である念仏をただ信じ、私のために届けて下さった南無阿弥陀仏の念仏を有難いことだなあといただいて生涯を歩まれました。

自分の力では仏になれないような煩悩にまみれた凡夫であっても、阿弥陀の大悲の誓願によって、お浄土に・仏に導いていくださるのです。

その本願念仏のはたらきは、分け隔てがあるものではありません。

寝ている時でも起きている時でも常にこの私に届けられているのです。

例えばお正信偈の中には「大悲無倦常照我」という一句があります。阿弥陀様のはたらきは12種の光に例えられますが、次の3つを挙げてみます。

  • 無量光・・・限りなく、いつでも私を照らして下さる光。
  • 無辺光・・・どこにいてもあまねく照らして下さる光。
  • 無碍光・・・何ものにも遮られずに妨げられずに照らす光。

阿弥陀仏の慈悲の誓願というのは、仏様に向き合っているとき、お念仏を申している時だけこの私に働いてくださるのではありません。

いつでも・どこでも・どのような状態でも常に誰にでも阿弥陀仏の本願のはたらきは届けられているのです。だからこの私を救ってくださる本願の念仏(名号)が尊く、また非常に有難いものだと気付かされるのです。

寝ている時と起きている時とに区別してお念仏を称えるのではなく、常に仏様のはたらきは届いているのだから、寝ている時でも起きている時でも区別されることなく、常に阿弥陀仏のまかせよという働きに頼ってくださいよと呼びかけを信じることなのではないでしょうか。

そのようにただ仏様が示した念仏を信ずるこころが、仏を念じる私の姿になっていくのではないだろうか。

つまり「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし」とは、阿弥陀仏の誓願を信じるために寝ている時も起きている時も南無阿弥陀仏の念仏を称えるのではなく、阿弥陀仏の必ず救うぞという働きを感じることができれば、自ずといつでもどこでもどんな状態でも仏を念じ、感謝の念仏の姿になるという意味なのではないだろうか。


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さいごに。寝ている時に念仏が口から称えられているかが問題ではないはず。

「寝ても覚めても念仏を称えなさい。」と言われれば、「眠っている時はお念仏できないんじゃないの?」と思うでしょう。

いやいや、起きている時ですらお念仏が称えられないのですから、寝ている時のお念仏が口から出ないのは大した問題じゃないはずですよね。

寝ている時のお念仏を心配するのは、起きている時に、いつでもどこでもお念仏が称えられるようになってからで十分ですね。

今月の法語は「ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし」とありますので、一日中積極的にできるだけ『なもあみだぶつ』と口に出し続けなさいと勧めているように感じますが、実のところは、阿弥陀様の救いの光から目を背けて反対に逃げよう逃げようとしているこの私自身を恥じ、煩悩や苦しみや悲しみの中で生きている中で、わが身を反省し仏様の本願念仏の教えに出会ってくださいよと、勧めているのではないでしょうか。

「時をもいわず、所をもきらわず、念仏申すべし」と蓮如のお手紙では言われているのですが、なかなか現代ではお念仏を口に出しにくい時代になっているように感じます。(変質者に思われそうやね)

お念仏を口に出すことで仏を信じるということではないのですが、お念仏を口に出す機会が減った現代では多少無理にでも、機会を見つけてお念仏を称える必要があるのかもしれません。

お念仏を口に出しても変な目で見られない場所は知っていますね。お仏壇やお寺ですね。

家のお仏壇でもいいですし、お寺に参ってお念仏を称えてください。念仏とは仏を念じるということ、つまりは仏様から私に届けられた願いを聞き自分自身を見つめなおすご縁がいただけるということになります。

さいごに、この法語カレンダーを作成した真宗教団連合の公式ホームページは、月ごとに掲載した法語の解説を載せています。

参考に10月の法語「ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし 」の解説を見てくだされば幸いです。龍谷大学准教授の解説ですので分かりやすい文章で書かれています。

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