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第250回目のラジオ配信。「お彼岸」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
かっけいの円龍寺ラジオ
これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいの音声配信です。
今回はお彼岸のお話です。
音声をとっているちょうど今、お彼岸となってます。
お彼岸、彼岸とこの言葉を知らない日本人はおそらくいない、春分の日・秋分の日をお中日とした、前後3日間の期間を指す言葉ですよね。
なぜお彼岸というかというと、彼岸の上に到、彼岸に到るという字をつけるのが正式な言葉で、到彼岸というのが本当の言葉、パーラミター、彼岸に至るのが正確な意味です。
彼岸に至るというのを短くして、彼岸お彼岸と私たちが今、言っているわけです。
先立たれた方が仏の世界・お浄土の世界に向かうのをお彼岸と言って、亡き人を偲んで太陽が真西に西に沈むのを人生になぞられて、春と秋、この時期を大切に過ごしてきたわけです。
どうでしょうか。このごろ、どんなことが言われているでしょうか?
一般的には亡くなったら、
天国へ旅立ちました
永眠しました
と言ったりしますよね。
最近だと、
帰らぬ人になりました
なんて言葉も耳にします。
なんかもう死んだ人は、向こうに行っといてください、休んどってください。
おまけには、自分のペットやニュースで聞いた動物から何から、なんでもかんでも天国天国と、天国という言葉の響き、言葉だけが独り歩きして、仏の世界・お浄土、亡くなられた人が今どうなさっておられるかという、思いを到るというのは、私たちの中に失われつつあるんじゃないのかなあと思うところです。
ちょっと話は変わりますが、この前、ミャンマーからやってきたゾウさんが40日で亡くなってしまったというヤフーニュースがありました。
私は普段コメントはあまり見ないんですが、一番上のコメントに「冥福を祈ります。」の一文があって、たくさん返信数があったので、気になってその返信コメントを読んでみました。
するとこんなようなやりとりが全体的にありました。
→冥福を祈るって、外国からきた動物に日本の変な宗教観を押し付けるのはやめよう
→いやいや、押しつけているのではなく、発言者さんの感覚では「冥福を祈る」の言葉になっただけでは?
→いやいや、冥福を祈るって言葉を短絡的に使うのはやめたら?
キリスト教徒にも使うし、その他の宗教にも使うし、動物にまでも使う。
冥土に行きたいわけないでしょ。
→いやいや、冥福を祈るという言葉にとらわれすぎるのじゃなくて、気持ちが大事なんじゃないの?
→いやいや、動物に対して言うこと自体が変ではないの?
お悔やみの気持ちがあればいいというコメントもあるが、お悔やみの気持ちを表す時ほど知識や礼儀を欠いたらダメでしょ。
とまあ、こんな風なやりとりが一番上のコメントにありました。
確かに冥福を祈る、冥途の幸福を祈られるということは、冥途に行くことが前提なので変な感じがするのは確かですね。
今回は天国や冥福という言葉ではなくて、仏教のお話、お彼岸・仏さまの世界に関しての内容なので、そちらのことは触れませんが、浄土真宗というお宗旨では、天国や冥途とは決定的に違ったものがあるんですね。
それは亡き人の思いがまた戻ってくる世界があるということです。
よそのお宗旨や考え方が悪いと言っているのではなくて、違いについて言っているだけですよ。
亡き人が仏さまの世界に往かれる・往生して、そしてまた戻ってこられる世界があるというのが浄土真宗です。
死んだら終わりというのが浄土真宗ではないんです。
浄土真宗でよく読まれる読み物に「往還回向由他力」というのがありますよね。
亡くなられた方は様々なはたらきになって、私たちを仏の世界に導くはたらき、光、ご縁となるわけです。
この私に戻ってくるはたらきが、他力回向の信心ということなんですね。
だから、私たちが亡き人を偲んで手を合わすのは、ええとこ行ってくださいよとか、休んでくださいよ眠っといて下さいといったこちらからの一方的な思いではなくて、亡き人の方から亡き人と共に、仏さまの願いを聞いていき、仏さまの世界に共に生まれようという思いをいただくものです。
そういったわけで、浄土真宗の場合、亡くなられた方々は先にお浄土に向かわれた方たちであり、こういった春や秋のお彼岸やお仏事・法事を通して、お骨やお位牌やお墓のような縁となるものを通して、亡き人とのつながりを大切にしているわけです。
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