こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
(今回はご門徒さんからの素朴な疑問なので、砕けた表現を多用するかも)
浄土真宗の人が手を合わしている仏様(ご本尊)の名前って知っていますか?
- 『阿弥陀如来(あみだにょらい)』
- 『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』
この2つの呼び名が一般的ですね。
実はこの2つの呼び方には微妙な使い分けがあるのですが、ここでは置いておきます。
他には『阿弥陀さん・阿弥陀様』と呼ばれる方もいますね。(私も普段は「阿弥陀さん」とお呼びすることが多い感じです。)
浄土真宗に詳しくない人でも「ナンマンダー」や「ナンマイダー」や「ナーマーダー」や「ナンマンダブ」などと耳にしたことがあるのではないでしょうか。
これらは全て「南無阿弥陀仏」をとなえているのです。
さて、浄土真宗の仏様は阿弥陀仏なのですが、多くの人は阿弥陀仏って、いったいどんな仏様なのかを知らないのではないでしょうか。
そこで今回は『仏説無量寿経』の内容も交えて、阿弥陀(あみだ)についてお話します。
なぜ仏説無量寿経を説明に用いるのか。
もう少しだけ前振りさせてね。
どうして阿弥陀という仏様を説明するのに、仏説無量寿経を用いると思いますか。
それは仏説無量寿経の内容が、阿弥陀仏という仏(ほとけ)がどのようにして阿弥陀仏になられたのかを説いているからです。(阿弥陀仏は最初から阿弥陀仏だったのではないんですよ)
無量寿経の「無量寿」とは阿弥陀仏の別の呼び名でもあるのです。
冒頭に阿弥陀仏の呼び名をいくらか例を挙げたのですが、実はもっともっとあります。
ですので仏説無量寿経とは、「(釈迦)仏が無量寿(阿弥陀)仏について説いた経」とも表すことができます。(*釈迦仏と阿弥陀仏はまったく別の仏様ですよ)
仏説無量寿経の内容を簡単に紹介。
だいぶ内容をはしょり砕けて紹介しますね。
- お釈迦様がお坊さんたちに対してお話をした。
- お釈迦さまが世に生まれたのは、苦悩の人を救うためだよと説いた。(本当に言いたいことは「この内容だよ」と前ふり)
- 阿弥陀仏は法蔵(ほうぞう)という菩薩だった。
- 法蔵菩薩の師は世自在王(せじざいおう)仏という仏。
- 法蔵菩薩は人々を救うための願いを立てる。
- 世自在王仏は法蔵菩薩にとんでもない数の浄土世界を見せられた。
- 法蔵菩薩はいずれの浄土にはない優れたお浄土をつくることを願った。
- そして48個の願い・誓いを立てた。
- そしてこれらの願いを成し遂げるために長~い修行をした。
- 願い・誓いが完成し、阿弥陀仏に成られた。
だいぶ簡易に仏説無量寿経の前半部分について紹介しました。(この後も無量寿経の内容は続き、人々が阿弥陀仏の名(名号)を聞き受けていくようなこと、阿弥陀仏の浄土の徳、戒めと浄土往生を勧めることなどなどがこの後に説かれています。)
内容をさらにまとめるとこうなります。
- 阿弥陀仏は法蔵という菩薩だった。(*菩薩は仏になる前の修行の段階)
- 法蔵はあらゆる仏のお浄土を見た。
- しかし法蔵はさらに優れた浄土を建てた。
- 建てるために48の願い誓いを設けた。
- そしてその願い誓いを成し遂げ、阿弥陀仏となった。
経典を基にした阿弥陀仏の説明。
勘違いされる人もいるので初めに説明しますと、阿弥陀という漢字には意味がないと思ってください。
「あみだ」とは「アミターバ」や「アミターユス」という阿弥陀様の働きを表す言葉がそのまま音として使われているのです。
アミターバとは無量光、アミターユスとは無量寿の意味です。
その無量を表す「アミタ」という音に言葉を当てたのが、阿弥陀(あみだ)という漢字ですので、漢字に意味を求めるのではないのです。
仏説無量寿経には阿弥陀仏の働きについてこのように説明されています。
佛告阿難 無量壽佛 威神光明 最尊第一 諸佛光明 所不能及 或有佛光照百佛世界 或千佛世界 取要言之 乃照東方 恆沙佛刹 南西北方 四維上下 亦復如是 或有佛光 照于七尺 或照一由旬 二三四五由旬 如是轉倍 乃至照一佛刹土 是故無量壽佛 號無量光佛 無邊光佛 無礙光佛 無對光佛 焰王光佛 淸淨光佛 歡喜光佛 智慧光佛 不斷光佛 難思光佛 無稱光佛 超日月光佛
簡単な訳。
無量寿仏(阿弥陀仏)の光明はあらゆる仏様よりも優れている。そしてあらゆる世界をも照らしている。
そのため、無量寿仏(阿弥陀仏)は無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光とも表現される。
まとめ
阿弥陀(あみだ)とは阿弥陀仏の働きを表す無量光や無量寿を表す「アミタ」の音を漢字にあてている。
そして阿弥陀を表す無量寿には様々な働き(阿弥陀仏の願い誓い)が備わっている。
*【注意】無量とは量ることができないほど、限りがないという意味です。ですので阿弥陀仏のもつ働きには限りがないということです。
お坊さんの私が阿弥陀仏を説明するときは。
阿弥陀仏とは「音になった仏・文字になった仏」とも言えます。
阿弥陀仏が法蔵菩薩から仏に成られたのは、210億もの諸仏の浄土世界を見ても成し遂げていなかったお浄土を建てたかったから。
そのお浄土を建てるために48の願い誓いを設け、私たちに阿弥陀仏の名をとなえることを勧められたのです。
阿弥陀仏の願いの働きとは限りなく、必ず私たち一人ひとりに届いているのです。しかしそれに気づくことなく生きている人ばかりなのです。
阿弥陀仏の建立した極楽浄土とは、自分の力では救われない人のために立てたお浄土であり、そこに生まれるには阿弥陀仏の願いに気づき阿弥陀の名をとなえてくれよと、呼びかけているのです。
真宗徒は合掌礼拝の時には「なんまんだぶ・なんまんだぶ」と念仏を称えます。
これは阿弥陀仏の願いのはたらきが届いている証でもありますし、音の仏になることでいつでもどこでもこの私を照らしていることを表しています。
阿弥陀仏は「いつも私を照らす仏さま・寄り添う仏さま」とも表現します。
それは「南無阿弥陀仏」の念仏となって、この私に阿弥陀の願いが届き、はたらき続けておられる仏だからです。
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さいごに。まとめ。
阿弥陀仏とは「私たちを救う無量寿・無量光といった仏の働きを表すアミタという音を漢字で表した仏であり、私たちを救う働きそのもの」です。
お坊さん的には阿弥陀とは「はたらきそのもの・願いそのもの」と表現したいのですが、それでは伝わりにくいと思ったので、ちょっとまどろっこしく説明しました。
もっと言えば、阿弥陀とは光や願いや智慧とも表せます。
勘違いされる人もいるでしょうが、私たちが南無阿弥陀仏と口に出すのは、それが阿弥陀様の建立した極楽浄土に生まれるためのパスポートだからではありません。それだと念仏を口に出さない人はお浄土に生まれられないのでしょうか。
違いますね。
私たちが南無阿弥陀仏ととなえるのは人のほうから「浄土に生まれさしてくださいよ」と願いを仏様に向かってするのではなく、阿弥陀仏のほうから願いがかけられおり「心配するなよ、必ずお浄土に生まれさせますよ」と呼びかけてくださっているのです。
その呼びかけを聞き訪ねていくことで、自ずと南無阿弥陀仏のお念仏が感謝の念仏として私の口から出てくるのです。
阿弥陀仏とはどんな仏か。
自分の力では救われにくい私たちを救う願い・はたらきを成し遂げ、阿弥陀(あみだ)という音・文字であらわされる仏となり、念仏「南無阿弥陀仏」の響きとなって私たちに勧められているのです。