真宗僧侶のかっけいです
お彼岸やお盆などの時期は各寺で法要がありますね。お寺での法要ではお坊さんがお話(布教)をされるのですが、お参りの方から拍手が起こることもあります。
でも実はあまり拍手はするものではありません。
今回は拍手をテーマにこの2点を紹介します。
なお浄土真宗以外の仏教宗派では、
- 拍手は「ぜひぜひOK」、「してください」
- 拍手は作法としてあるよ
と、拍手OKというのもあるかもしれませんが、今回は浄土真宗でのお話です。
拍手は仏様を批評することになる
おそらく拍手をする人は、『なんてすばらしいお話だったんだ』という称賛の気持ちを表しているのでしょう。
ですが言い換えると、拍手をする・しないということがお坊さんのする話を批評しているということにつながります。
拍手をする場面を想像してみましょうか。(なお、神社参拝時の拍手はここでは触れません)
拍手は「場を勢いづかせるため」や「称賛・賛同・納得」など心が動かされた時の表現伝達手段だとされます。
どう思いますか?
いいえ。お坊さんの話への拍手はよろしくないんですね
拍手そのものが「良いこと・悪いこと」だと言っているわけではありません。
拍手をすることが、その話に対して良い悪いの批評してしまっていることがよろしくないのです。
お坊さんのする話は「良い話・悪い話」ではないんですね。お坊さんのする話は「仏様の法の話」。言い換えると「仏様のありがたい話」です。
もちろん話し上手なお坊さんもいます。一方で歯切れの悪いお坊さんや難解な話をする人もいます。お坊さんによって聞き心地のよい・悪いはあります。
しかしそれに対して拍手する・拍手しないというのは「この話は良かった・良くなかった・頑張った・いまいちだった」という批評になってしまいます。
法話は仏様がされているのです。お坊さんは仏様の代わり、お参りの方々にお話をさしていただいているのです。たとえ耳に痛い言葉であっても、聞きたくない言葉であっても、仏様からのお呼びかけなのです。
聞法の最後は合掌・念仏・礼拝
それではお坊さんの話の後はどうすればいいのでしょうか。
答えは浄土真宗のお経文の最後に書かれています
お経文とはお釈迦様がお話されていた時の記録だと思ってください。
聞仏所説 皆大歓喜 礼仏而退
仏説観無量寿経
聞仏所説 歓喜信受 作礼而去
仏説阿弥陀経
以上のように浄土真宗のお経本では、仏様の説法を聞いた人たちは、仏様に礼拝をして去っていったことが書かれています。
浄土真宗のお坊さんがする話でも、同じことをすればいいのです
浄土真宗のお坊さんは阿弥陀仏の仏法をお話させていただき、お参りの人とともに仏法を味あわせていただています。
そのため仏様の法を聞いた後は「合掌をし、阿弥陀仏がすすめる南無阿弥陀仏のお念仏をして、礼拝」をすれば、これ以上の敬いの形はありません。
聞法の最後は拍手ではなく「合掌・念仏・礼拝」。
これは作法というよりかは、仏様にお参りするときの心構えだと思ってください。
お話の合いの手は合掌念仏
お坊さんの話に対して拍手はダメと言いませんが、好んでする行為ではありません。
拍手を受けたら苦笑いをしたり、「できれば最後は合掌・お念仏でしめましょう」と呼びかけるお坊さんもあります。
拍手をする側は好意をもってのことでしょうし、拍手される側も気分が悪いものではありません。しかし拍手はどうしても仏様の法話にはふさわしくないのです。
「このお坊さんの話は素晴らしかった」・「調子づけのための合いの手」のつもりで拍手するのはよろしくないのです。
仏様の話ですので、そのまま自分自身への呼びかけ・問いかけとして聞きいただくのが大切です。お坊さんの話で救われるんじゃなくて、仏様のはたらきで救われるのです。
繰り返しますが、お坊さんは仏様の法の話を仏様に代わり、お話しているだけです。お坊さんに対しての拍手は不要です。また仏様への拍手も不要です。
演劇などでは拍手が合いの手して使われます。さらにはブラボーや屋号などの掛け声もあります。これは浄土真宗では「合掌・念仏」が相当します。
浄土真宗に篤い家にお参りに行きますと、読経や法話のときにお参りの方から『なむあみだぶつ・なんまんだぶつ・なもあみだぶつ』とありがたいお念仏の声が聞こえてきます。お寺の法要でも同じです。
仏様からのお呼びかけ・仏法に対して、良かった悪かったと聞くのではなく、そのまま有難うございますとお念仏の声(拍手に代わるもの)が読経や法話の中にでてくるのです。
ちなみにお坊さんのする話に対して拍手をしないのと同じく、読経の後も拍手はしません。
理由は読経もまたお釈迦様からのご法話だからです。
読経の最後も、合掌礼拝念仏です。
関連記事:お坊さんも評価される時代?ラジオ21
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補足
wikipediaによると
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、拍手を次のように説明しています。
内容を要約します
- 拍手は興行等において感動を表現するため両手で叩くこと
- 相手の気を引く目的で手を叩く
- 人間の場合は、更に手を叩くことにより賞賛・賛意・歓迎・喚起・感激・感謝といった感情を伝える
- 江戸時代までの日本では、観劇等で音を立てることを作法に反すると考えていた
- 明治になり西洋人が音楽会や観劇のあと「マナー」として拍手しているのにならい広まった
真言宗では作法として拍手があるらしい
浄土真宗では法話・布教といったお坊さんの話に拍手はしませんが、真言宗では作法として拍手があるそうです
参考リンクの内容をまとめます
参考リンク:【巡礼のしかた】寺院で手を叩くのは変ですか?(真言宗津軽仏教会)
- お寺でも手を叩いていい
- 密教では修行中に喜びを表す動作として拍手をする
- 「お寺=お葬式をする所」というイメージになり、喜びを表す動作の拍手が不謹慎だと思われ、拍手をしない常識が生まれたのではないか?
- 津軽の人のおおよそ半分は寺で手を叩くらしい
超魔術の評価に拍手はいらない
マジシャンのミスターマリックは、著書「モテる超魔術」の中で「超魔術の評価は拍手ではありません。相手のリアクションです」と書きました。
ミスターマリックの評価は拍手ではなく、相手のリアクションというのは仏教にも通じると思います。
普通、素晴らしいマジックを見れば、それを行ったマジシャンの演技に対して拍手することでしょう。それはなんでかというと、称賛の気持ちがあるからです。しかしミスターマリックは称賛よりも、見ている人の受け(リアクション)が大事だとしているのです。
仏教でも、仏様のお話を聞いた人のリアクションが大事です。
浄土真宗の仏教経典では、仏様のお話を聞いた人たちはみんな、大いに喜んで(歓喜して)、礼拝して去っています。拍手して仏様の話をほめるのではなく、仏様からの話をどのように受け止めていく(信受する)のかが大事なのです。
勢いづかせるや称賛といった意味なら、お話したお坊さんに拍手をしてもいいじゃない