こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
12月31日は一年最後の日ですね。この日は大晦日と言われます。
日本では大晦日の夜、すなわち除夜にお寺の梵鐘を撞く習慣がありますね。
さてなぜ除夜の鐘を撞くでしょうか。
「108もある煩悩を消滅するため」としばしば理由がつけられているでしょう。
でもどうでしょうか。
除夜の鐘を撞き鳴らしたって煩悩なんてなくならないよね。
今回は、除夜の鐘と煩悩について書いていきます。
除夜の鐘を撞くときの気持ち。煩悩一杯の私たち。
ちょっと想像してみましょうか。大晦日の夜に寒風吹き荒れる中、お寺に行って除夜の鐘を叩きに行った自分を。
除夜の鐘は年越し前後ですから、自ずと深夜11時過ぎになりますよね。
冬の気温が氷点下になるような時にお寺に行っても寒いでしょう。
有名な寺院に行きますと、いつまでたっても自分の撞く順番にならないですよね。
新年を迎えたのに、なかなか家に帰れなくてだんだん腹が立つでしょう。さっさと暖房の効いた部屋で年明けのバラエティー番組を見たいですよね。
元旦の朝には神社へ初詣に行ったり、おせち・お雑煮を食べたいから早く寝たいでしょう。
人によっては初夢もみられなくなるでしょう。
一年間の煩悩を取り去るためにお除夜の鐘を撞きに行ったのに、私たちの心には寒い・眠いたい・さっさと打ち終わって早く寝たいといった様々な煩悩が駆けめぐっていることでしょう。
除夜の鐘がうるさいと感じるのも煩悩だよね。
大晦日の夜、寒い中、屋外でお寺の鐘を撞くのは辛いものです。
でもね。私たちは自分の中の煩悩を減らそうと思ってわざわざ叩きにいくんだよね。
そんな立派な気持ちを抱いてお寺に行っても結局煩悩なんて無くならないよね。
さらには最近では除夜の鐘が煩い(うるさい)と文句を言われる世の中です。
寒い中除夜の鐘を撞き鳴らしている側も煩悩だらけの気持ちであり、またその鐘の響きを聞いている側も煩いといった怒りの煩悩が湧き上がってるんですよね。
煩悩が無くなるはずがない。煩悩あっての人間。
例えば浄土真宗の宗祖親鸞聖人は次のような和讃を残されています。
罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし
高僧和讃より
内容は「煩悩によって生み出される罪や障害は、転じて功徳のもととなる。それは氷と水のようである。氷が多ければ多いほどそれが解けた時の水が多くなるように。煩悩が多ければ多いほど得られる功徳が多くなる。」といった意味です。
人生誰もが思い描いたように順風満帆な日々を過ごせるわけではありません。必ず壁にぶつかることがあります。
人間関係であったり、健康に関すること、学問に関することなど。どんなにお金があり人よりも優れた生活をしていたとしても人間の欲望には際限がないため、満たされることはありません。
しかし人間は煩悩があるからこそ失敗や過ちを犯したときに反省をし、より自分を成長させようと頑張ることができます。
自分が完璧な人間・誰よりも優れた人間・失敗や過ちをしない人間であると思いあがってはいけません。
人間には煩悩があるのが当たり前であり、自分が抱えている煩悩を見つめていくことが大切なのです。
大晦日の夜に鐘を撞いても煩悩が無くなることは決してありません。
除夜の鐘では煩悩は無くならない。でも撞くことをお勧めする。
大晦日の夜はテレビや都会では新年を迎えるカウントダウンをするようです。
あれは何でするんでしょうかね。私にはよくわかりません。
何か年を越えるという瞬間には盛り上がらないといけないんだという虚勢を張っているような感じがします。
大晦日の夜も私たち一人ひとりにとって大切な一日です。
確かにこの瞬間をおめでたい気持ちで過ごすのも大切でしょうが、人間盛り上がろうと思えばどのような時でもできるでしょう。皆さんも嫌なことがあったら歌を歌ったり食べたり飲んだりしてストレス発散するでしょう。
なぜ私は除夜の鐘を撞くことを進めるのか。
それは騒ぐこともなく静かな落ち着いた中で時を過ごす機会を得られるからです。
除夜の鐘を撞いても文句ばかり言う私で煩悩なんて無くなりません。
しかし自分の手で撞いた鐘の闇夜を破る鐘の響きを聞くことによって、静寂な中での自身を振り返る縁になると私は思うのです。
もちろん繰り返しますが、煩悩はなくなりません。
私たちは死ぬまでとどまることなく、ひたすらに煩悩に満ち足りた人生を歩んでいます。
除夜の鐘を撞く中で煩悩が常にある身であり煩悩が離れられないのだと再確認し、また時の流れをリアルに感じる中に一年を振り返り反省し、新たに迎える一年に思いを馳せられるのが除夜の意義ではないだろうか。
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さいごに。除夜の鐘は一年に一度だけの有難いご縁。ぜひ参加してほしい。
さて途中でも言いましたが、最近では除夜の鐘の音が煩いとクレーム・苦情のある時代になってきました。
しかし考えてみてください。除夜の鐘は一年のたったの一度の機会なんですよ。
この一年を締めくくる鐘を鳴らす中で、この一年間の我が身を振り返ることができるんですよ。
煩いなあと騒がしいなあと感じる人はぜひ鐘を撞きに来てください。
撞いたからと言って煩悩が無くなったり願いが叶うわけではありません。逆に煩悩だらけの自分により気が付かされることでしょう。
しかしその一年終わりという大切な節目を鐘を撞くという行為をして過ごすことによって、ありのままの自分の姿に気がつくことが何よりも大切だと思います。
なかなか私たちは自分を振り返ること、見つめなおすことはないでしょう。
ありのままの自分を知らずに新年を迎えるのと、煩悩だらけの自分を見つめ反省したうえでの新たな一年というのは、全く違った生活になるでしょう。
だから除夜の鐘を撞きに来てほしい。聞くだけでもいいが自分で鳴らすのはより貴重なご縁です。
余談ですが、わざわざ大きなお寺に除夜の鐘を撞きに行く必要はありません。
大きなお寺に行ったから煩悩が無くなるわけでないからね。
近くのお寺に行ったら快く鐘を撞かしてくれるはずです。(悪戯したり騒ぐのはやめてね)
一打一打、夜の静寂を破る鐘の音の響きを感じていただければなあと思います。(108打にこだわる必要は全くないです)