こんばんは。 浄土真宗僧侶のかっけいです。
私はお坊さんです。
お坊さんだと葬儀や年忌法事などのお参りに行きますね。
すると最近ではお参りの人が少ないんですよ。葬儀では家族葬や直葬という不思議な造語を使っていますね。
で、施主や喪主の言い分はこうです。
『若いもんには迷惑をかけたくないから呼ばなかった。お参りに来てくれと強く言えなかった。』
『親戚や近所の人には迷惑をかけたくないから連絡してない。』
お墓やって同じことですよ。
最近では「墓じまい」という造語がごく当たり前のように使われ始め、『子や孫の迷惑になりたくない、世話になりたくないから、私の代で先祖のことを処分する』と。
迷惑をかけたくない心理が日本人の特徴だという人がいますが、そんなことはないはずです。
むしろ仏教的真宗的な考え方をすれば、生きていくことや死んでいくことにおいて誰かの迷惑をかけるのが当たり前。
迷惑をかけつつかけられつつお育てにいただくのです。
今回は「迷惑をかけずに生きたい」という考え方がお坊さん的には、不幸せな生き方死に方だなあと感じることを紹介します。
人は自分一人では生きられない。
「人は自分一人の力では生きていくことができない」
『そんなの当たり前じゃない。分かっているよ。』と言う人はまず間違いなく分かっていません。
本当にわかっている人は、「ああそうだなあ」とうなずくことができる人です。
仏教に限らず、世界中には様々な宗教や哲学や思想があります。どの考えにも助け合いや感謝や礼というのがあります。
なぜなら人は支えあわないと生きていけないから、感謝と礼によってコミュニティーを潤滑なものに維持しているんですね。
「人は自分一人の力では生きていくことができない」というのは、誰でも知っていることです。でもこの考え方が負担になってきている人がいるんですね。特に現代では。
明治以降になって日本にも西洋欧米の考え方・生活スタイルが数多く入ってきました。
家から個を尊重する生き方も取り入れられました。
今の時代でも個人一人ひとりの自由な生き方が尊重されています。
お坊さんの私から言えば、個を尊重するのはいいことなんですが、行き過ぎてしまったように思います。(もう修復不能でしょうが。)
実家を守る意識がない、先祖をまつる弔う意識もない、育てられている意識もないようになってきたと思います。(子や孫に口を出すことができない状況、子や孫が年長者のお願いを聞き入れられない状況というのもヤバイですよね)
「お育てを受ける」と「おかげさまで」という言葉。
浄土真宗では、「お育てを受ける」と「おかげさまで」という言葉があります。(現在では死語になりつつあるような気もしますが。)
私の住んでいる田舎では、外で畑仕事をしている人に「精が出ますね」と声をかけますと、「おかげさまで」と返ってきます。
ここで言う「おかげさまで」とは、直接あなたのお世話になっているいないに関わらず使われる言葉です。
「おかげさまで」とは、「私が今ここにいるのは、あらゆるご縁のおかげさまです。」という感謝の気持ちです。
仏教では人に生まれるというのは難しいことなんですね。自分の命は急にこの世に生まれ出たのではなく、限りないほどの先祖の縁があり今のこの私の命でもあるからですね。
生まれてきてからも大変です。
生まれることにも多くの人たちの関わりがあったのですが、それからの人生にも多くの人のご縁や助けがあります。その多くのご縁によって私たちは育てられているんですね。
私はお坊さんです。
檀那寺のお坊さんというのは、檀家(門信徒)に育てられると言われます。
人間とはどんなに年齢を積み重ねても未熟な状態です。
お坊さんだからといっても立派な人間ではないですし、人から指摘されることによって気がつくことも多々あります。
お寺というのはお坊さんが管理しますが門信徒の支えがあって維持できるのです。
育てられるというのは、現代の感覚だとほっといてくれ・余計なお世話ととらえられそうですが、手間に思うかもしれないし迷惑に感じるかもしれないが私のために私のことを思っての働きだと受け止められます。
「迷惑をかけない生き方。」は後の人に何を残すの?
「他人に迷惑をかけない」って響きだけはきれいですね。
でもね。迷惑をかけない生き方死に方ってできますか。
この世に生まれてきた以上、必ず何かしらのご縁を受けなけれななりません。
でも、現代ではそのご縁が迷惑だと言っているんですね。
葬儀や法事を例に言えば、故人(先祖)の死を通して仏縁にであい仏法をいただく場です。
それを葬儀や法事に呼ぶと迷惑をかけるから案内しなかったというのは、育てられてきた意識やおかげさまでの意識がないからでしょう。本当に「お育てを受ける」・「おかげさま」の意識があれば、迷惑をかけずには生きられない私を振り返り感謝をするでしょう。
『迷惑をかけたくないから葬儀は簡素でいい。誰も呼ばなくてもいい』と今のご年配の人は言いますね。
あれは子や孫に迷惑をかけない素晴らしい生き方死に方のように思うかもしれませんが、言い換えると、「自分の父や母・先祖は迷惑な邪魔な存在だった」と言っているんですよ。
どんな人でも一生に一度は仏法を伝える場があるといいます。
それは葬儀の場面です。
人間は必ず死にます。肉親との悲しい別れを通し、物言わなくなった姿を見て、人生のはかなさを空しさを実感します。
死んでもなお残った人の世話になること迷惑をかけることに抵抗を感じる人がいるかもしれませんが、人は迷惑をかけつつかけられつつ育てられ命を繋いできました。残された人に迷惑をかけるが、そのご縁を通して「お育てを受けていた私」・「おかげさまだった私」に気がついていくのです。
広告 - Sponsored Links
さいごに。迷惑を知らない生き方は不幸せ。
仏教に出会うということは、縁を知るということです。
縁を知れば私という存在があらゆるいのち・あらゆる縁・あらゆる迷惑の中で生かされていることに気がつきます。
迷惑をかけたくないというのは、迷惑をかけて生きている私を知らずに棚に上げて、後の者に迷惑という大切な考えを伝えていないのです。
あらゆる迷惑により、おかげさまでの人生をいただき育てられているのですが、迷惑は受けてきたのにお返しをしないんですよ最近では。
迷惑とはかけつつかけられるものです。
迷惑なしには生きられない私の命とは、また他の命を生かす存在になるのです。
子や孫に葬儀や法事の出席を案内したり、親戚近所の人の世話を受けるのは、時間やお金の迷惑をかけさせてしまいます。しかしその迷惑を通して後の人は命のつながりに手を合わすことができるのです。