お悔やみに「成仏して・迷わないで・冥福を」は浄土真宗では使わないよ

こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。

葬儀の時に弔辞・弔電に、お悔やみの言葉が紹介されます。

最近では定型文・例文が用意されているので、いつ聞いても同じような文言しか読み上げられません。

特に注意してほしいのがお悔やみを申し上げるのであれば、相手のお宗旨に多少は寄せる心遣いがあっていいのではないでしょうか。

最近ではどのメディア媒体も「心よりご冥福をお祈りいたします。」と決まり文句として使っています。

  • 迷わないでください
  • 成仏してください
  • 冥福をお祈り申し上げます

例えばこれらは浄土真宗では使われないお悔やみの言葉です。

今回は、なぜ浄土真宗ではお悔やみの場でこれらの言葉を用いないのかを説明します。

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なぜ「成仏してください」や「冥福を祈る」が駄目なのか。

  1. 成仏してください。
  2. 冥福を祈る。

これらの言葉は一見、亡くなられた人に対して良いところに行ってくれよ~と願っている言葉として綺麗な表現に思われるでしょう。

しかし裏を返せば次のようなニュアンスになってしまいます。

  1. 故人は成仏していない。
  2. 故人は死後に迷う可能性がある。
  3. 死後の行き先は冥土である。

そんなつもりで言ったのではないでしょうが、「成仏して」や「冥福を祈る」には亡くなった人が成仏していない・迷っている・冥土に行くことが前提の上での文言になっていますよね。

そういうことを説いている宗教ならば別にこれらの言葉を使ってもいいのですが、浄土真宗では相応しくありません。

浄土真宗は阿弥陀仏のはたらきにより間違いなく浄土に生まれ往く。

浄土真宗のご本尊すなわち仏様は阿弥陀仏(あみだぶつ)です。

阿弥陀仏とは、「必ず必ず阿弥陀仏の浄土である極楽浄土に生まれ導く」と約束された仏様です。

これが阿弥陀仏が私たち人間に対して願われた如来の本願です。

浄土真宗の南無阿弥陀仏のお念仏を聞きいただいている人たちというのは、間違いなく阿弥陀様のお浄土に生まれさしていただくことを約束して下さっているので、先に亡くなられた人たちというのは、冥土の旅をしていることもありませんし、冥土に落ちて彷徨っているわけでもありません。

浄土真宗では先に亡くなられた人たちを諸仏と敬い、残された人たちを導いてくださる仏さまです。

迷っているのは私たちの方だと気が付く。

そもそもですが、亡くなった人の行き先をあれやこれやと生き残っている私たちが操作できるのでしょうか。

もちろん人間の願いとして亡くなった人が「幸せになってほしい」もしくは「悪さをしてほしくない」とあれやこれやするのはおかしな行動ではないでしょうが、浄土真宗ではそれらの行為は仏様のはたらきをそもそも信じていない・疑っていることだと考えます。

  • 故人はお浄土に間違いなく生まれ往く。
  • 冥土に行かないので、冥土の幸福も関係ない。

むしろお浄土から向けてられている故人の「迷わずに生きてくれよ」という呼び声に気が付くのが大切です。

勘違いされがちな浄土真宗の教えとして、浄土真宗は死者の救いを説いていると思われています。

いいえ違います。浄土真宗は生きている人のための教えです。

それはどういうことかというと、世の中には自分の都合のいいようになってくれよという自己中心的な願いが多く、日の善し悪しや死後の不幸などの迷信ばかりだが、そのようなことに拘っている私たちの方こそ迷っている存在だということ。

仏様の必ず救うという願いのはたらきが届いているのだから、諸仏となられた先人たちの冥福を祈る必要はなく、むしろ今生きているこの私が根拠のない迷信に振り回されることなく力強く生きていくのです。


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さいごに。故人を偲ぶ場を大切にする。

ここまでごちゃごちゃと書きましたが、正直なことを言いますと喪主をはじめ遺族の方々は、それほどお悔やみの言葉の一字一句に拘ってはいません。

むしろお参りに来られた人たちの方が気にしているぐらいです。

無難に「お悔やみをを申し上げます」や「哀悼の意を表します」と挨拶するのが良いと思うのですが、心にも無いような言葉をチョイスするぐらいならば、遺族とともに亡き人を偲び、手を合わされる方が何よりも有難いご縁だと思います。

ちなみにですが「ご冥福をお祈り申し上げます」はキリスト教の葬儀にも相応しくないようです。

考えてみれば、冥途の旅をしない宗教には使われないのは当然ですよね。(でもきっと加藤一二三さんが亡くなった時は諸々のメディアは冥福を使うんだろうなあ)

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