お坊さんの職業は他人の不幸で成り立つのか?

真宗僧侶のかっけいです。

お坊さん(僧侶)という職業に対して、良い印象を持たない人もいます。(僧侶が職業であるかどうかはここでは取り上げません)

なぜなら僧侶のすることは、葬儀や法事やお盆・お彼岸と、「誰かの死」があってはじめて必要だと思われているからでしょう。

他人の不幸は蜜の味……とも言われますが、本当にお坊さんって、人の不幸をあてにしている人間でしょうか。お坊さんの立場からこの問いに答えていきます。

不幸=死という考えは仏教的ではない

  • 身内に死人が出た時には「身内に不幸がありました」と表現しますね。
  • 葬儀が続けば「不幸が続く」とも言いますよね。

不幸という言葉はけっして、死や葬儀にのみ使われるのではなく、重い病気・急な病気などでも使われるのですが、多くの場合は「不幸=死」ととらえられている印象です。

仏教では不幸=死とは考えていません。

仏教では死は誰にでも平等にかならず訪れるものだと説いています。生きている者に死が訪れるのは真理であり、避けることのできない事実です。

別れは悲しくつらいものです。しかし、死という悲しい別れを経験することで、生きている私たちにいのちの尊さを気づかさしていただくご縁だと僧侶は考えます。これは先祖を偲ぶ法事でも同じことが言えます。

特に真宗では死者の冥福を祈りません。亡き人の法事という仏縁をつとめ、私たちに仏法を出あわしていただいているのです。

ですので考え方を変えれば、死=不幸ではなく、死=ありがたい仏縁になるのです。お坊さんが法事やお彼岸やお盆を大切にしてくださいとは、仏縁を大切にしてくださいとのメッセージです。

僧侶は人の不幸を商売にしているのか

今回の話は、「僧侶は職業なのか?」というテーマではないのですが、やはりお金の話は避けられないと思うのですこし取り上げます。

結論を言えば、お坊さんの仕事は商売ではないことが多いです。

理由は定価を決めて商品の取引をしていないからです。もしも金額の定まった仏具やお守りを売っていれば、それは商売です。

お坊さん的には「死ぬこと=不幸なこと」ではないのですが、世の中一般的には不幸なことと思われているようです。すると、葬式・遺産相続・仏壇・墓などと、世の中は不幸によってお金がめぐっているようにも感じるのでしょう。また、そのお金の中心人物がお坊さんだと。

例えば葬祭業を考えてみましょう。(ちなみに僧侶は葬祭業はしていませんよ。仏教行事の執行者がお坊さん(導師)なのであって、施主の依頼によってお勤めをします。)

葬儀屋と契約している花屋・仏壇屋・石屋・料理屋・仕出し屋・タクシー会社・宿泊会社・お礼品の会社などが、葬儀屋を中心とした葬儀業に関わってきますね。最近では都会の方ではお坊さんが葬儀会社と契約しているとも聞きます。

現代はつき合いをやめ、お金で楽に解決をしようとする時代なので、それに応じるように面倒なことや無関心なことの筆頭に挙がる葬儀と言うのが、目に付いてしまうように思います。

お坊さんの役目のひとつに、仏事の執行があります。それは施主の依頼があってすることであり、お布施という定価のないお金を受けとります。

なぜお坊さんが儲けているように見えてしまうのか

お坊さんは布施を受けとります。たいてい布施の中身はお金です。

葬祭業者に支払う葬儀費用が高いことだけでなく、お坊さんへのお布施も高額だということが、お坊さんが儲けていると見えてしまう原因だと思います。他にも法事をすることでお坊さんにお布施を渡しているともあげられるでしょう

お坊さんとは身内・親族の死があってから初めてお付き合いするものだという印象があり、お坊さんは人の死によってお金を得ていると思われているのでしょう。

しかし本当は、お坊さんとのつき合いは死(葬儀)がなくてもできるものです。

最近ではお寺への相談事が減りお坊さんが頼りにされている時代ではなくなっていますが、本来なら悩みや不安の相談をお坊さんに頼ってもいいはずです。

お坊さんとの普段つき合いが全くないので、葬儀や法事という不幸な死のときだけ、お坊さんがお金を持って行くように感じるのでしょう。

他にもよくあることとして、仏壇は家に不幸があってから用意するものだという考えです。本当は家を建てるときに家庭の中心にお仏壇を構えるのですが、家族に不幸がないと用意しないのが実情です。

僧侶に関わることが何でも死に関係しているよう感じ、本当は違うのですが、「不幸=死=僧侶」というイメージを持つ人もいるのでしょう。

死で儲けているとは考え方の違いか

死で誰かが儲けていると考えてしまうのは、お金の動きだけを見てしまっているからそう感じているのではないでしょうか。

お金が発生せずに仕事をしてくれる職業はありません。

お坊さんを職業だと考えれば、葬儀のお勤めを進行をしたお坊さんには、財施という金銭による布施をします。人によってはお坊さんが儲けているようにも感じのでしょう。

しかしお金の動きだけではない見方をしてはどうだろうか。

例えば葬儀屋は他人の不幸によって儲けていると考えますか?

そうではなく、大切な身内との別れを、親族や地域の人が共同でしなくてはならないことを、サポートしてくれているのかと考えられるのかということです。

死だけでなく病でも言えますね。

病気にかかれば医者や薬屋に行きますね。人の不幸によって儲けていると考えるのか。それとも心身の不調を治すために努力してくれているのかと考えられるのか。

お坊さんへの布施も似ていませんか。

人の不幸によって儲けていると考えるのか。それとも悩みや苦しみ・悲しみからどのように幸せに転じるのかと仏法を説いていると考えられるのか。


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お坊さんは他人の不幸で生きているのか

『お坊さんの職業は、他人の不幸で成り立つのか?』のタイトルに戻ります。

これは物事の見方によって違ってきます。

不幸だと考えている「死」(葬儀・法事)の時だけお坊さんに頼り、生きている時にお坊さんや仏教に接していない人には、お坊さんとは他人の不幸につけこんでお金をぼったくる人だと考えてしまうでしょう。

そうではなく、日常的にお坊さんとお付き合いをし、仏教にも出会い、残された遺族がお坊さんと共に亡き人を偲ぶ中で仏法に出あっていると考えられるのであれば、お坊さんが他人の不幸で生きているとは考えないでしょう。

仏教では死を不幸や穢れとは考えていません。死は誰にでも平等にやってきます。また亡き人は、先にお浄土に向かわれた仏さまであり、私たちの歩む道を示してくださっています。

お坊さんは人の不幸をあてにしていません。亡き人のご縁から、ともに仏法にであえることがお坊さんとしてありがたいことです。そのなかで、法施と財施の布施のやり取りが行われているのです。