真宗僧侶のかっけいです。
ブログを続けていますと、「あなたの言っていることはおかしい。間違っている」とのお便りをいただくことがあります。
浄土真宗の教えや作法というのは、他の仏教宗派とは大きく異なっていることもありますし、また世間一般の人がイメージしがちな考え方とも違っています。
そのため『浄土真宗の常識の多くは、世間・他宗の非常識』と言われることもあります。
例えば浄土真宗では当たり前である作法や考え方を少し挙げてみます。
- 仏壇や墓は先祖や位牌を供養するための空間ではない
- 年忌法事や祥月命日のお勤めは過ぎてからでも大丈夫
- 故人の追善供養や冥福は祈らない。私の願掛けもしない
- 日の吉凶・方角の良し悪しはない
- 仏壇にはお茶やお水を専用の器に入れて供えない
- 浄土真宗は亡き人の為ではなく、生きている人に向けられた教え
どうでしょうか。
おそらく浄土真宗以外の人からすれば、なにこれ気持ち悪いなあと思われるかもしれません。ですからちょっと批判めいたお便りをいただくのかも。
というわけで今回は『浄土真宗のお坊さんの言うことすることは、非常識?変?おかしい?』ってことについて書いていきます。
以下の文は他宗批判のために書いているのではありません。浄土真宗が他の仏教宗派と違うのはこんなところですよと、説明するためです。
浄土真宗っていうのは分かりにくい
浄土真宗っていうのは分かりにくいもんです。
いや実際には非常にシンプルなことを言うているんですが、世間一般の人がイメージする考え方とはかけ離れているのでどうしても受け入れがたいのです。
人間というのはどうしても自分本位の考え方・ものの見方をしようとしてしまいます。
そして何とか自分の力、今まで積み上げてきた努力や成果や名誉によって何とかなるできるとおもってしまいがちです。
でも浄土真宗というのは、すべて阿弥陀仏の本願力のはたらきによって救われる教えなのです。
この救われるというのがまた誤解をうみやすく、お金持ちになるとか、健康になるとか、事故にあわないとか、人よりいい暮らしができるとかが救いじゃないんですね。
人は悩みや苦しみの中で生きているのが当然であり、自分もその中にいることに気が付くことが大事なのです。浄土真宗を信仰していても苦しみや悩みは消え去りません。しかしその避けることのできない事実をそのまま受け入れ、かつ有難いご縁であったという価値観に転ずることによって強く生き抜く教えです。
人生で一番の悩みというのは、老いること・病むこと・死ぬこと・そして生きていくことです。
浄土真宗の本尊、阿弥陀仏は後の世のことは何も心配するな必ず必ず救うぞと願われた仏様です。いつどんなところでも阿弥陀さんに見守られている安心感があり、いまのいのち・ご縁がなによりも尊く有難いことだと気が付かされて生きていくのです。
浄土真宗の救いというのは、自分主体の価値観を転換し、仏さまの願いの中に生き、事実をありのままを受け入れ、いのち・ご縁に感謝しつつ生き抜くということです。
浄土真宗は「これだけやった」「してあげよう」という考えではない
浄土真宗は「南無阿弥陀仏の念仏をとりあえず唱えておけばいいんでしょ」と思われるかもしれません。
もちろん形から入ることも非常に大切だと思います。
しかし念仏をすることによって救われるのではなく、阿弥陀仏のへの信心、もっと簡単に言えば「ありがとうございます・おはようございます・おやすみなさい・おかげさんで」と感謝をしながら日々の生活の中を歩めることです。
浄土真宗は亡くなった人や仏様のために「してあげよう」や「これだけのことをしてやった」と考えません。しかし世間一般ではどうでしょうか。
- 私はこれだけの回数、お寺に参り続けた
- これだけの金額の財を、仏像や寺院に使った
- 先祖のために立派な墓を建てた
などと、自分はいろんな素晴らしいことをしてきたのだから、きっと人一倍救われるだろう・悟ることができるだろうと思ったりします。
でも浄土真宗では違います。
お参りした回数やお金というのは全く関係ありません。それは阿弥陀さんから私たち衆生にかけられた願いをそのまま受け止めず、これだけのことをしたのだから見返りがあるだろうと「取引」になってしまいます。
浄土真宗では「これだけのことをした」・「してあげよう」と考えるのではなく、仏の願いを「ありがとうございます」とそのままいただき、お飾り(給仕)や仏事はそのお礼として「さしていただく」となるのです。
さしていただくお参りから、さらに仏様の私に向けられた願いにであうご縁に出あっていくのです。
浄土真宗はなぜ非常識にみえるのか
浄土真宗のお坊さんや門信徒からしますと、浄土真宗の考え方や作法というのは理にかなっています。一方で浄土真宗の教えに出あえていない人からすれば、先祖供養や願掛けをしないなんて「人としてどうなんだ・非常識だ」と感じることでしょう。
しかし浄土真宗もお釈迦様が説かれたおなじ仏教であり、そして仏からの教えをもと・よりどころにして人生を歩んでいる点では世間一般の人と同じであります。
ただ、ものの捉え方が違うのです。
浄土真宗でも供養はあります。また願いの中に生きています。
浄土真宗は先祖や両親らのために供養は致しません。なぜなら先立たれた人たちは諸仏になられて私たちを導いてくれているからです。亡くなられた人を諸仏として仰ぎ、敬い偲ぶお勤めをするなかに私も共に養われる(育てられる・お育てにあずかる)のです。供養というのは先祖の為にするのではなく、先祖を偲ぶご縁からこの私に対して向けられているのです。
願掛けも同じことです。
願掛けは神仏に対して私たちの望みを聞いてもらおうとお願いすることです。しかし浄土真宗では願いがかけられているのは私たちの方であり、私たちはその仏様の願いをそのまま有難うございますといただいていくのです。
決して神仏の力が劣っているから願わないのではなありません。阿弥陀仏にすでに願われている身であるから、私の方から願う必要がないということです。
浄土真宗では私が仏や亡くなった人に何かしてあげようと考えるのではなく、仏や亡くなった人からの差し向けられた願いを聞いていくのです。いただいているのは私たちの方なのです。
「自分が~する」ではなく「この自分に向けられたいた」と、自分の物差しではなく、仏様の物差しでものごとを見ていくのです。
学校で習ったであろう言葉使えば「自力」の見方から、「(本願)他力」の見方になることです。表現を変えると、「自分からの~」ではなく「仏様からの~」と見えていくのです。
そもそもの見方が大きく異なっているから、浄土真宗は他宗や世間からは非常識に見えてしまうのです。
浄土真宗は変わっているから常識外れなのだろうか
浄土真宗は考え方やものごとの捉え方が、他の宗派や世間の間隔からはずれています。
占い事もしないですし、お守り札もしません。友引や仏滅といった良時・吉日を選ぶこともしません。葬儀で清めの塩も使いません。
焼香時に額に押しいただいたり、数珠をこすり合わしたりもしません。
昔から浄土真宗は「門徒もの知らず」と他宗から批判されていたそうです。これは浄土真宗の人は阿弥陀仏以外を拝まず、土地の神仏への儀礼や風習にも従わなかったために「浄土真宗信者は仏教的常識や世間的常識を知らない」という意味でこのように言われたそうです。
しかしこれには少し誤解があるように感じます。
浄土真宗が占い事をしない、お守り札も持たない、日を選ばないというのは、世の中の迷信や俗信に惑わされない生き方のためです。決して他人がしているからといって、それを非難しているわけではないのです。あくまでも占い事に左右される人生というのは自分にとっては必要なことではないのです。
神様を拝むな・神社に行くなといっているのではありません。もしも行きたければ行けばいいのです。しかし阿弥陀仏救いがあるのですから、わざわざ他の神仏に頼る必要がないのです。
浄土真宗はわざと常識はずれにも思えるような行動をしているのではなく、する必要が無い・気にする必要が無いということを進んでしていないだけです。それが結果として非常識に思われるのかもしれません。
広告 - Sponsored Links
さいごに。浄土真宗の考え方は数ある宗派の中のひとつ
以前私は「浄土真宗では仏具のおりんはお参りの時に鳴らすのではなく、お勤めの時の合図ですよ」という記事を書きましたら、いやいや私の宗派は鳴らしますよ間違ったことを広めないでお便りがありました。浄土真宗だと何度も説明しているのに、自分がしていることと違うことを言わると、否定された気分になる人がいるようです。
しかし同じ浄土真宗でも派によって作法というのは微妙に異なります。
お仏壇の仏様まわりのお飾りが違いますし、焼香の回数・おりんの鳴らし方、さらには畳の敷き方なども違います。
浄土真宗は他の仏教宗派とは全然違うから、「浄土真宗のお坊さんのブログは参考にならないよ」とも言われますが、同じ浄土真宗内でも違っています。
浄土真宗の一宗派の一お坊さんが言っていることが何でも正しい・嘘だらけというのではなく、日本にはさまざまな考えを持った集団がありますし、地域によって習慣が異なります。
浄土真宗のお坊さんは非常識?変?おかしい?と疑うのではなく、そういった考え方やものの捉え方もあるんだなあと参考にしていただければ幸いです。