こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
私は現在27歳の浄土真宗のお坊さんです。
現代のお寺の多くは親から子に代が続いていく世襲制が一般的なのですが、現実には跡継ぎがいないお寺が増えつつあります。
跡継ぎがいないのには理由があります。
- 子や孫がいてもお寺に戻ってこない。
- 子や孫がいてもお寺を継ぐように言えない。
- そもそも子や孫がいない。
今回は私がお寺の跡を継ぐようになった理由を紹介しますので、跡継ぎのいない理由についてはここでは少しだけ触れておきます。
多くのお寺は寺院を護持運営するのが困難な状況です。
当然ですよね。人口が減ってきているのですし、お寺に参る人も減っている。さらには葬儀や法事といった仏事をまともに勤めない家が増えてきたのですから。
ではどうやってお坊さんがお寺を維持するかと言えば、ずばり副業です。
昔であれば学校の先生や公務員が一般的でした。今の時代では難しいですが。
副業で収入を得ることでお寺の維持、お坊さんの家族を養っていったのです。
そのような寺院の財政状況をお寺の子供は見てきているので、都会に出て就職し安定した生活を得ると戻ってこなくなります。
またお寺の住職も厳しいお寺の状況。数十年後には廃寺も止む無しになるような状況を考えると、跡を継いでくれと言えないのです。
最後に、お寺も少子化・未婚化が問題となっています。
40歳を過ぎても結婚していない・子供がいないお寺が増えています。お寺に嫁がれる・養子にこられる人が減っていることも原因です。
私がお寺の跡取りになった理由。
まずは自坊のことについて少し紹介します。
- 自坊は真宗興正派の末寺で、歴史は400年以上あります。
- 私で24代目になります。
- ご門徒数も200軒程度あり、現状副業なしで寺院運営が可能な状況です。
お寺を継ぐのは感情論?
少し話が変わって、ライブドアの元社長で実業家の堀江貴文さん(愛称:ホリエモン)は家業を継ぐのをおすすめしていないそうですね。
理由として次のことを挙げています。
精神的に楽だし、トータルの労力は少なくて済む。
自分の好きなことができるしね。
だって、多くの場合、感情論でしょう。親に申し訳が立たないとか、世間の目が気になるとかみたいな。
感情論とは、感情によってなされる議論という意味なのでちょっと言葉のチョイスがおかしいのですが、要は跡を継ぐことは理知的に論理的に考えた結果ではなく、感情によって自分の価値観によって決めるということですね。
さてお寺の跡を継ぐこととはどういうことでしょうか。
感情論によって決めてはいけないのでしょうか。
結論から言って私はここでいう感情論によって決めるべきだと思います。
お寺というのは、ああだ・こうだと理屈をつけて引き継いでいくものではないと思います。
それはなぜでしょうか。
お寺は預かりものだからです。
お寺というのはお坊さんの所有物ではないんですよ。
お坊さんがお寺が門徒や信者の信仰の場として機能するように維持管理していくのです。
もしも跡を継ぐお坊さんが財産を受け継ぐ気持ちであるならば、私は跡を継がない方をおすすめします。なぜならお寺とはお坊さんのものではないのですから。
- お寺を継いだら、楽に生活できるなあ。
- お寺を継いだら、お金儲けができそうだなあ。
- お寺を継いだら、人から尊敬されるかも。
繰り返しますがお寺というのは信仰の場、仏法を頂いていく場です。
お寺の人間が得をしよう楽をしようという思いで継承していくのであれば、そのお寺の将来は危ういですね。
私が感情論で跡継ぎになろうと決めた理由。
私にとっては、お寺を継ぐのにああだこうだと理由をつける必要はありませんでした。
自ずと私がこのお寺を継いでいくんだという気持ちがあったのです。(それをここではあえて感情論と表現しておきます。)
自坊は400年以上の歴史があります。格別古いお寺でもありません。
代も私で24世になりますが、これは歴代の住職が早くに亡くなっていったからです。
400年の歴史というの非常に短くあっという間です。
しかしこの400年という歴史の中でお寺の預かり主、代表者の住職は23人もいます。
そしてこのお寺を頼りにしてきた人たちも数多くの人たちがいます。
お寺の歴史の中ではお寺が火災で経堂・鐘楼・山門以外すべて焼失したときもあります。
しかしその時には多くの支えによって本堂が再建され、お坊さんが居住する庫裏(くり)は屋敷を解体して移設してくれた人もいます。
お寺のお坊さんとは永代に渡って支えのある限り、仏法を伝えていく場としてお寺を相続してく使命があります。
浄土真宗のお寺には永代経という法要があります。
この言葉は永代供養のための法要ではありません。
永代志納経・永代読経・永代祠堂経と呼ばれますように、このお寺が永代に渡って子々孫々にお寺・法が伝わるために行われる法要です。
お寺というのはまだ数百年の歴史、長いお寺でも1500年程度でしょう。
しかしそこに参り、法を聞いていく人はこれから先にもずっと続いていきます。
これは私の気持ちの話です。
「そんな昔からの繋がりなんて知らない」「後の人の仏法を聞く場なんて、今の私がすることじゃないでしょ」とあなたが思う人もいるでしょう。
しかしそれは仏教の大切な心を忘れています。
仏教とは、「いのち・つながり・よろこび」です。
私のいのちは、私の命なのですけども私だけのいのちではない、常につながりの中で無数の縁の中で今たまたまあるのです。そして法に出あえたよろこびがあるのです。
私がお寺の跡を継ぐのはこのような立派な心があったからではありません。
しかしお寺の子として、幼い時よりお寺に参る人たちの姿を見て、仏様をおまつりしているお堂を見て、このお念仏の場を続けて行かなくてはならないという気持ちが自ずと湧いてきたのです。
お寺を継ぐことは仏法の場を設けること。
お寺はこれからの時代、非常に厳しい時代になるでしょう。
おそらく50年以内に半数程度がなくなるか消滅の危機になるでしょう。
維持できるのは1割程度になるんじゃないかな。
理屈でお寺の跡を継ごうと考えているのならば、それは間抜けな判断だと思います。
繰り返しますが、お寺とは信仰の場であり、常に頼りにされまた支えによって維持されていく場です。
浄土真宗のお寺は念仏道場ともいいます。
仏法を聞き頂く場だけでなく、お念仏の道を歩んでいく場でもあります。
お寺が無くても人は生きていけますし、信仰を持つことはできます。
しかしお寺があることで、常に頼りとなる場、仏法を頂いていく場が誰の手にもあることになります。
今までのご先祖たちが支え支えられてきた思いを感じ、また私の代で後の人たちに仏法が伝わる場を維持できなかったことに申し訳なく感じます。
お寺を継ぐことを「仕事」としてではなく、「使命」として継いでいかなければならないのではないでしょうか。
だから私は理知的に論理的に考えて跡を継ぐのではなく、感情的に跡を継ぐのだと言ったのです。
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さいごに。余談。
お寺の後継ぎになるかは、お寺の跡取りの性格もあるでしょうね。
私はこんな性格ですから、上で説明したような感覚でお寺の後住になっています。
実は自坊では、歴代の多くは長男が跡を継がずに次男が跡を継いでいます。
私は冗談のように「長男は先に生まれたから自分の好きなことが先にできるけども、後に生まれたものは出遅れるからね。」と言っています。
しかし後に生まれた者の方が甘やかされやすいのか、私は幼い時より本堂のお参りの人にちょっかいばかりかけていました。
座布団を運んだり。跳び箱みたいにジャンプしたり、お寺の木に登ったり、扉を蹴破ったりと。
自然とお寺に迷惑かけていたので、自ずとお寺のことを深く思うようになったのかもしれません。
それで言いますと、私の父(23世住職)も次男坊です。
小さい時には本堂の屋根の頂上まで登ったそうです。高さが10メートル程度もあり、勾配もきついのによく登ったものです。
そんな風な子供の方がお寺の後を継ぎやすいのかもしれませんね