こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
私の年齢もアラサーになりそろそろ一人前の僧侶にならなければならない年齢になってきました。
しかしですね、浄土真宗というものは他の仏教宗派と違って、滝に打たれたり山にこもるといった修行は行なわないでんすね。
ですので修行の成果によって一人前だと認められるわけではありません。
しかしどのような勤め(職業)であっても「半人前」・「一人前」と言われますように、僧侶にも一人前というのがあるはずです。
嫌な言い方をしますと、「あの坊主は大したことがないなあ」や「あの坊主は未熟やなあ(頼りないなあ)」と言われるようでは一人前とは言えないでしょう。
今回は末寺のお坊さんにとって、一人前の僧侶になるのにどうのような能力ステータスが必要なのかを紹介ます。
まず一般的な僧侶について説明します。
真宗興正派の僧侶とは何か。
真宗興正派では法規の中で、僧侶に必要なことを2つ定めています。
それが行儀と教養です。
この2点について説明します。
勤行(お勤め)が正しくできること。
1つは「きちんとお勤めができる」と「きちんと作法ができる」ことです。
行儀とは言い方を変えますと、「勤式作法」と呼ばれます。
勤式作法とは勤行と儀式作法を合わせた言葉になります。
勤行(お勤め)とは仏事の時にお経などを読むのですが、そのときに節をつけずに読むものがあれば、声明(しょうみょう)という節をつけてリズムにのって読むものもあります。
その時に、正しく真宗興正派の読み方ができているかが重要になります。
また儀式作法とは、例えば本尊や仏壇の荘厳(飾り方)方法や衣の種類・着付けかた、道具の使い方などを正しく真宗興正派の作法通りにできることです。
法話(お話)が教義にのっとってできること。
もう1つは「法話ができる」ことです。
僧侶というのはお勤めができるだけでは駄目なのです。
法話というのは、聞き手(ご門信徒)の前で仏教の教えを分かりやすく伝える事です。
仏教経典や和讃・高僧の方々が書かれた書物というものは、漢字で書かれていることが多く、表現も古く、仏教語と呼ばれる独特な意味を知らなければ理解するのが難しいため、一般の方では何を書いているのか、何を伝えたいのかが分かりません。
そのために僧侶というのは自身が勉強し教養を積み、真宗の教え・興正派の教義を分かりやすく伝えなければなりません。
この二点を客観的に判断するのが「得度(とくど)」と言われるものです。
得度というものは各宗派の本山が独自に行い、最低限の行儀と教養が身についているかを判断しています。
この得度を通過することで、その宗派の僧侶として本山から認められます。
一人前の僧侶(お坊さん)になるために求められる能力
上記で説明した得度とは、僧侶になるために必要なことです。
ただ得度というものは最低限の能力が身についているかを確認しているのであって、僧侶としての本当の研鑽はこれからです。
ですので僧侶の中には、お勤めが正しくできていない人もいれば、お話が苦手(できない)人もたくさんいます。
このことを「半人前」と言えるのかもしれません。
逆に言えば、お勤めが惚れ惚れと悦に感じるようであったり、わかりやすいお話をしてくれる僧侶が「一人前」と呼ばれるかもしれません。
しかし私が考える「一人前の僧侶」はこのことを指していません。
なぜならお勤めやお話が達者というものは、誰かが僧侶同士を比較して言っていることであり、あの人の勤行・法話は素晴らしいというのは比較の結果です。
僧侶として本山から認められている以上、お勤めに違いはないですし、お話は苦手な人なりに伝えようとしていることがあります。
ですので行儀・教養というものは、皆さんが言いがちな「半人前・一人前」にかかわらず、僧侶は常に学び続けています。
私が考えている「一人前の僧侶」とは「末寺の僧侶」の立場からです。
末寺の僧侶が一人前になるということは、檀那寺と檀家さんとの関係の中で出来上がることだと思います。
以下から一人前になるために必要な能力・スキルを挙げてみます。
末寺の日常業務に必要な能力・スキル
末寺(まつでら)とは檀那寺(だんなじ)とも表現します。
末寺の僧侶とはこの檀那寺を永代に渡って守っていかなければなりません。
その支えになるのが御門信徒との関係です。
お寺の美観管理をすること。
お寺という建物は広い敷地があり、木々が植わっていたり、お堂が複数建っていたり、僧侶の住む居住スペースがあったりします。
お寺というものは本来、日中は門を開けておかなければなりません。
なぜならお寺にお墓があったり、お骨を預けていたりして御本尊にお参りに来られる方がいらっしゃるからです。他にも仏事であったり、宗教相談や人生相談などいろいろな内容で尋ねに来られます。
そのときにいつでも気持ちよくお参りしていただけるように、できるだけお寺の境内や建物を清潔に保っていないといけません。
例えば、雑草を多く生やさないこと。お堂の中のごみを取り除くこと。伸びた木の枝を整えること。お花を生けることなどなど、例を挙げきれないほどの膨大な量があります。お寺の僧侶というのは、仏事がないときはこれらのことを常にしております。
電話の声を聞いただけでどこの誰かが分かること。
お寺には毎日、檀家さんからの電話が掛かってきます。
しかし電話の多くは「もしもし。(姓)です。」と情報量が非常に少ないのです。
ご門徒さんからすれば、声で気づいてほしいということだと思います。
お坊さんは電話の声を聞いただけでどこの誰かが分かることが理想となることです。
私にはまだまだ無理な能力ですが、私の父や母の電話対応を見ていると完璧にできていますので、御門徒さんもできて当たり前だという認識なんでしょうね。
私も少しずつ慣れてきているので、いくつかコツを挙げてみます。
- 電話機に表示されている「局番」を確認する。
- 在所の確認をする。
- 直近数ヶ月のご命日を頭に入れておく。
最近の電話機は相手の電話番号が表示されるので、受話器を取る前にここの確認をします。例えば「0877(22)XXXX」でしたら0877は市外局番に当たるので、丸亀エリアの丸亀市・坂出市・善通寺市・綾歌郡宇多津町・仲多度郡琴平町、多度津町、まんのう町」からかかってきていることが分かります。香川県内だと大体0875~0879の間ですので、どこら辺からかかってきているのかが推測できます。
電話機の相手が姓のみ告げてくる場合は、「どこそこの(姓)さんですね。」と確認します。これで大体特定できます。無理な場合は下の名前も在所を聞くときに確認しましょう。
そして結構大切なのが、御門徒の命日を何となしにでも覚えておくことです。そろそろあの方から電話が掛かってきそうと身構えていたら、すぐに名前がでてきますし、話もスムーズになります。
ご門信徒の命日をお参りの時に確認しておくこと。
祥月命日であれ、法事の時であれ、御門徒さんの家族の命日は確認しておいたほうがいいです。
なぜなら御門徒さんはお寺が御先祖のことをきちんと見てくださっているものだと考えているからです。もちろんお寺がお預かりいるお骨は粗末には決してしていないのですが、命日までは記憶することができません。
しかしお参りに行くときは、父母の代までは確認していくようにしています。そうすれば次の祥月命日・法事の日程をお参り先で話をしてもスムーズに進みます。
字がきれいであること。
お坊さんは筆で字を書く場面が結構あります。もちろんボールペンや鉛筆などで書くことも多々あります。
しかし御門徒さんが手にする者はお位牌のことが多く、お位牌は木に書き記すため、墨汁で書かないと文字が残らなかったりします。
木の板に墨汁で字を書くのは滲みがでて非常に難しいのです。
住職くらいになるとほとんど滲むことなくスラスラと書くことができるのですが、私にはまだまだです。人前で書く機会も多いので、緊張も原因かもしれません。
ご門徒さんはお坊さんの字は上手だと考えている方が多いように感じますので、なおさら緊張してしまいます。
真宗では繰り出しのお位牌や日めくりの過去帳を使うことが多いので、筆できれいな文字が書けることが理想です。
コミュニケーション能力があること。
コミュニケーションとは言い方を変えますと、お話が老若男女を問はずにあらゆる話題でできることです。
そのためには多くの教養知識・一般常識、世の中の慣習、流行りの話題、そして何よりも記憶力が大事であったりします。
数年ぶりにお参り先で御門徒さん家族と出会ったときでも、顔・名前、年齢・職業をおおよそでいいから覚えていた方がいいですね。どこに住んでいるかということや、先祖のつながり、本家・新家などの家の歴史も知っておいたほうがいいです。
こんなことを言っていると気持ち悪い様に思うかもしれませんが、御門徒さんと檀那寺との関係ではそんなことはありません。
むしろ知っていて当然だと言えます。
お坊さんの話は案外雑談が重要だったりします。
仏教の話を聞きたい人もいるのですが、最近のスポーツニュースやお祭りごと、植物の育て方など、情報共有の場としても話をしますので、小さい子供からご年配の方までに通用するネタを持っていた方がいいです。
私はのんびり方なので、祥月でも1時間以上話をしていることがあります。
場所を記憶したり、運転技術をあげること。
これも当然のことですが、御門信徒の家や墓の場所を覚えておくのも重要です。
最近では減りましたが、枕経(臨終勤行)をお勤めするために急にご自宅にお参りをするときに家が分からないと大変なことになります。
また家の場所を覚えることで、電話応対したときでも、移動時間の目安がたちスケジュール管理をスムーズにできます。場所の記憶はかなり重要だったりします。
しかしですね、お寺の誰かがすべて覚えてしまっている状態だと、毎回その人の記憶に頼ってしまっているため、なかなか覚えられないんですね。場所を覚えているのは当たり前のことなんですけども、いざ思い出そうとすると駄目なことが多いのです。
またお坊さんは車の運転技術もそれなりに必要になります。
事故をするのは絶対だめですよ。
香川県は狭い道が多く、対向車が来るのが許されない道を走ることもあります。崖道を走ったこともあります。私が乗っている車はイースという軽自動車なので、比較的小型の車のため狭いところでもどんどん入っていくことができます。
車に乗る様になってから8年もたっているのでそこそこ運転の技術は上がりました。
ブロック塀や石垣に挟まれたかなり細い道でも時間かけることで何とか進めるようになりました。
まだ私は体力がある方なので、どうしても進めない場合は車を停めて歩いていくのですが、停車できない時もあります。
お坊さんにはかなり細い道を移動できる運転技術も必要になります。
幸いにいまだに無事故無違反ですので、これが続けられるように引き続き注意して運転したいです。
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さいごに
一般的に「一人前の」お坊さんとはお勤めや作法、お話がしっかりとしていることだと思いますが、それは当たり前のことです。
末寺のお寺を護持している僧侶にとっての「一人前」とは御門徒さんとの関係を大切にし、檀那寺を永代につなげていくことではないでしょうか。
つまり御門徒さんから認められること、頼りにされることが一人前になった証だと思います。
僧侶というのは定年が存在せず、体が動かなくなり法務が勤められなくなるまで、引退することがありません。そのため40代や50代でも若手であるように言われたりします。
しかし円龍寺の場合は440年の歴史の中でもう23代も経っており、一代の年数が15年もありません。円龍寺の歴代の住職で60歳以上も生きたのは先代だけですし、当代の父も世にいうアラカンと呼ばれる年齢に突入しました。
私もそろそろ30歳が目前です。
ご門徒さんから安心して円龍寺のお寺を任せられるように早く「一人前の僧侶」にならなければなりません。
「末寺での一人前の僧侶」になる一番のことは「御門信徒からの信頼」を得ることです。そしてその方法が上で説明したことであり、特別なことをするのではなく、日常の法務をより丁寧により誠実に努めていくことだと思います。