こんばんは。 僧侶のかっけいです。
お寺を取り巻く環境は時代と共に大きく変化しています。
色々な問題点はありますが、例えば大きな出来事として「信仰離れ」・「お寺との希薄化」が挙げられるでしょう。
ここ数年の寺院や僧侶に関するニュースを見ますと、『寺ヨガ』・『寺カフェ』・『坊主バー』などのお寺を文化教室・憩いの場としたり、僧侶自身がアクティブな活動をしていることが報道されています。
なんでこんなことをするようになっているのかと言えば、今風の言い方をすれば「競争」・「生き残り」・「選ばれるお寺」といった様に、「自分の所はこんな新しいことをしているんですよ。他とは違うんですよ。もっと注目してください」というアピールです。
現代では、特に若者を中心とした世代では、お寺との繋がりを持とうとする人が少ないです。
そのような若い世代の人がお寺に参らないということは、その子供たちはもっとお寺に参る機会を失ってしまいます。そんなわけで今のお寺の活動は保護者・若者受けするような活動をしている所があります。
私はお寺を開かれた空間として世間にアピール・発信することに対して、批判的な立場ではありません。しかし例えば、お寺の本堂をヨガ教室などの用途で開放するのはどうかなあと感じます。
そんなことを今回書いていきます。
寺院を文化・芸術発信の場とすることのメリット。
お寺というのは宗教施設です。ということは、仏教寺院の本堂には仏様(本尊)が安置されており、仏教儀式が執り行われています。
お寺とご縁の少ない人たちにとっては、「お寺って何をしているんだろう?」・「ちょっと怪しいかも?」とお寺の本堂に入るのに抵抗があるかもしれません。
しかしお寺(修行の寺など一部を除いて)というのは、どなたでもお参りのできる空間です。お坊さんからすれば、ぜひお参りしてくださいという気持ちです。
しかしながらお寺というのは敷居が高いのか、なかなか行けないものです。
そんなわけで、
- 法要に合わせて書道・絵画の展示
- 法要時に出店・マルシェ
- 毎月・毎週の定期的な教室・カルチャースクール・写経
- 不定期の音楽コンサート・落語会
- 修行体験・宿泊体験
といった形で、お寺に来てもらうきっかけを作るところもあります。
開かれたお寺・親しみの感じるお寺
このことがお寺で文化・芸術発信の場とするメリットとなります。
お寺をより身近に感じてもらいたい
寺の本堂を教室として利用する否定的な意見。
ホームページ・ブログ、そしてtwitterやfacebookなどのSNSを利用している寺や僧侶は活動的なところが多い印象です。
お寺をヨガ教室などのカルチャーセンター的な用途で貸し出しでいるところもあります。
それ自体は私は否定的ではないのですが、一点だけ文句を挙げるならば、本堂を利用するのはいかがなものかと思います。特に本山のような大きな寺院では。
お寺の本堂は、お寺という宗教施設の中で最も大切な空間です。
そこではお勤めもあり、祈りもあり、念仏もあり、観光もあり、さまざまな目的で来ている人もいます。もっといえば、フラッと何気なしに来ている人もいます。もちろん日本人だけでなく、外国人だっています。
そのような中で、ヨガマットを敷いて、音楽を流して、体を動かしている人たちがいたとしたらどうします。
おそらく「あっ。入るのやめとこう」、そして帰っていくでしょう。
お寺の本堂の中でヨガをしている人たちは満足でしょう。お寺の本堂という普段感じられない特別な空間で、ヨガをできているのですから。
しかしそれ以外の人達からすれば、落ち着いてお寺の本堂に参るという場を奪われているということになります。
実は私の属している真宗興正派の本山興正寺では、この春5月から阿弥陀堂でヨガ教室をするようです。そのような便りがありました。
その中でこんな文言がありました。
- 興正寺に愛着を感じていただき、親鸞聖人のみ教えに触れていただく機縁になればと考えます。(←そうですね)
- 興正寺阿弥陀堂参拝者席で、本堂の静粛性を保ちつつも和気藹々と行えるように配慮します。(←できますの?)
「愛着を感じていただき、親鸞聖人のみ教えに触れていただく機縁になれば」というのはその通りです。そうなって欲しいですし、そのためにもお寺に行くきっかけとしてヨガといった教室をするのは分かります。
しかし、「本堂の静粛性を保ちつつも和気藹々と行えるように」というのは如何なものか。そんなことができるとは到底思えません。
興正寺の阿弥陀堂はそんなに広くはありません。もしもヨガ教室をしていたらそれだけで空間を占拠してしまいます。
これはヨガに限らず、例えば写経であったり、フラワーアレンジメントなどの教室があったしたら、本山にお参りに来た人はどう思うだろうか。
例え、静粛な雰囲気であったとしても、本堂の中には入らないのではないだろうか。
これが200畳・300畳以上の広い空間があり、そのなかの30畳程度の隅の方でしているのであれば、まだいいのですが、きっとそんなことはないでしょう。
寺を教室などの文化芸術の場として利用するのは素晴らしいが、どなたでも仏様に参ることができる空間というのが大切なのであり、本堂に入ろうとした人が思いとどまるような場にしてはならないと思います。
それは本山だけでなく、一般寺院・末寺も当てはまります。
不定期のコンサートを告知をし、それ用に音響なども用意をするといった特別イベントで本堂を使うのは、告知をしている分、お参りの人にも説明ができるのですが、昼間に本堂を貸し出した定期的な教室があり、お寺で法事・仏事をしたい人や相談に来た人が寺の本堂に参ることができないといった事態になってはおかしいのではないだろうか。
寺の本堂をヨガ教室の場として開放するのではなく、本堂でお勤め・お参りの後、一般寺院であれば庫裏のお座敷で、本山クラスであれば、研修会館や聞法会館といった学びの舎でしてはどうだろうか。
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さいごに。
寺子屋という言葉があります。
かつての寺は文化芸術の発信の場所、そして学問を学ぶことができる場所だそうです。
しかし現代のお寺に、寺子屋としての役割は必要なのだろうか。
というのも地域や自治体には公民館やカルチャーセンターといった文化芸術発信発表の場、また学校や塾といった学び舎は日本各地に不足なくあります。
お寺がヨガ教室・写経などをしているのは極端なことを言えば、人が来てくれそうといった期待を抱いているからではないだろうか。
もちろん何もしないよりかはずっとよく、お寺を身近に感じるきっかけになれば何よりのことです。
私は寺院にとって最も大切な空間である本堂をヨガ教室などのカルチャースクールに貸し出すのは否定的です。しかし実際には寺院の多くは昼間の本堂は人気のないガランとした空間であり、それこそ人がいる状態というのは嬉しいことです。
しかしながら、いざお寺に来た人が本堂に参れないといった事態になっては本末転倒です。
おそらく多くのお寺は本堂を貸してほしいという要望があれば、喜んで応じるでしょう。一方で寺院側から「どうでしょうか。本堂を使いませんか?」とは提案しないでしょう。
お寺というのはそのような微妙な立ち位置であり、お寺で様々な取り組みをして寺に関心を持ってもらいたいのだが、いざ自分からお寺に来た人が本堂に参らず帰ってしまうような寺にはなってほしくはないのです。
あくまで若造の私の私的な考えではあるが、お寺の本堂を教室として利用することへは重々検討しなければならないテーマです。