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第326回目のラジオ配信。「外国人参拝者のこと、法要日がなぜ4月下旬なのか?御下賜衣体とは?」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
かっけいの円龍寺ラジオ
これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私「かっけい」の音声配信です。
今回は、本山興正寺の春の法要にお参りしてきて感じたことをお話します。
雑談のような回です。
お話の後半ではなんでかなあ~と不思議に思ったことを2つ紹介します。
さて、私のお寺は浄土真宗の興正派に属しています。
本山は京都の興正寺で、西本願寺のお隣、南側にあります。
本山興正寺では先日の4月23日~25日までの三日間春の法要があり、私はその初日の23日にお参りに行ってきました。
この日はあいにくの大雨でした。
バスに乗って朝早くに香川を出たのですが、道路が大渋滞で、いつもと違うルートを走っていたようです。
さいわいにお昼過ぎには本山について一安心だったのですが、雨のせいか、本山の賑わいもちょっと寂しいなあと感じました。
お坊さんの姿はたくさんあるんですよ。
お坊さんのお出迎えはしっかりとしているんですが、肝心のお参りの人がまばらで、雨模様も相まって、寂しい印象でした。
ただここ3年ほど続けて法要にお参りして思ったことが、意外と外国人の姿はよく見るんですね。
私もお堂に上がるときに、傘をたたみ、靴をぬいでいたときに、excuse meと声をかけられました。
案外、日本人よりも外国人のほうが、こういった何か法要がありそうな、お坊さんがたくさん集まっていてイベントがありそうな雰囲気を出していると、お寺に寄ってくれるのかもしれませんね。
日本人の場合、たいてい、お隣にある大きなお堂の西本願寺の方にだけ行ってしまうかもしれないですね。
飛び込みのお参りは日本人よりも外国人の方が多いかもしれません。
実際、私は午後2時からの昼座の法要に出勤したのですが、そのときに本堂の内陣から外陣の様子を見ると、割と外国人らしき人たちが席に座ってお参りしてくれているんですね。
その様子を見ると、日本語のアナウンスだけでなく、英語やその他の言語でも今が何の法要をしているのか、案内してくれたら、外国の人も関心が持てるのかもなあと思いました。
私が出勤した23日の昼座は1時間近くのお勤めで、さすがに終わりのころには、初めのころに見た外国の人たちの姿はなくなっていました。
それでもせっかくの外国から観光客が多く訪れる京都の立地にあるんだから、外国人にもやさしいお寺になってほしいなあと思いました。
さて、ここからは私が毎年ちょっと気になっていること、不思議に思っていることを二つ紹介しますね。まずは一つ目のことから。法要の日にちについてです。
本山興正寺の春の法要は4月23日から25日の三日間ありました。
浄土真宗には伝統的に10の宗派があるんですが、真宗興正派の本山興正寺はけっこう珍しいときに春の法要をしているんですよね。
例えば、同じ京都にある大谷派の東本願寺や佛光寺派の佛光寺は4月の最初、1・2・3日あたりに春の法要をすることが多いです。
これはおそらく浄土真宗の宗祖親鸞聖人が4月1日に生まれたと伝わることに関係していると私は思っています。
一方で、本願寺派の西本願寺や、高田派専修寺や木辺派錦織寺は5月21日ごろに法要をします。
これは親鸞聖人が生まれたとされる4月1日を新暦に換算した日が5月21日だからですね。
あるいは福井にある他の本山では3月のお彼岸ごろに法要をしていたりします。
それを思うと、私のところの本山、真宗興正派の本山興正寺は4月下旬ごろと、不思議な感じがしますよね。
これは私の推測になりますが、こういった理由があるんじゃないのかなあと思っています。
ご存じでない方も多いかもしれませんが、真宗興正派の紋は、牡丹の花の紋です。
本山興正寺は五摂家の一つ鷹司家と関係の深いお寺です。
その鷹司家も興正寺と同じく牡丹の紋となっています。
興正寺のお寺に行きますと、入り口の三門を含め多くのところに牡丹の紋が施されています。お坊さんの衣にも牡丹の紋がついています。本山興正寺に行く機会がありましたら、ぜひご覧になってください。
さてそれで、牡丹の花が見ごろを迎えるのはいつでしょうか。
そう、4月下旬のころですよね。
二十四節季(にじゅうしせっき)でいうと、穀雨(こくう)の頃。
雨の降りやすい時候ではありますが、この穀雨の終わりの頃を、七十二候(しちじゅうにこう)では牡丹華 (ぼたんはなさく)といいます。
牡丹は夏が訪れる前に咲く花で、ちょうどそれが4月の下旬ごろなんですね。
興正寺の紋は抱牡丹です。
牡丹の花にちなんで、真宗興正派の本山興正寺はこの4月の下旬ごろに春の法要をしているのかなあと、想像しています。
これが私が不思議だなあと思ったこと一つ目のことです。
二つ目の不思議に思っていることは御下賜衣体(おかしえたい)のネーミングです。
おそらく皆さんは「おかしえたい」と言われてもピンと来ないでしょう。
子供の頃の私もそうです。
衣体(えたい)というのは浄土真宗で使う言葉なのでしょうかね。
お坊さんが法要の時に着る衣や袈裟や袴のことを衣体といいます。
それで「おかし」という言葉ですが、これは私は子供の時はずっと、食べ物のお菓子が連想されていました。スイーツのことですよね。
でも実際はそんなわけはありません。おかしの衣なわけがないです。
これは本山から特別に与えられた賜った、つまり下賜された衣のことを言います。
下賜された衣体だから「下賜衣体」。こう言われたらなるほどなあと納得しますよね。
でも不思議なのが、下賜衣体に「お」をつけるんですよ。これが不思議でたまりません。
だって、下賜という言葉にはすでに目上の存在から賜ったものという敬語の意味が含まれているんですよ。
その下賜という言葉に、さらに丁寧さや敬意を表す御という字をつけて、おかしえたいというのは、何か不思議な感じがします。というのを子供のころから思っていました。
こういった例は、ほかにもありますよ。
例えば、お寺の建物・お堂のことを丁寧にいうと、御堂といったりします。
堂の文字に御という字をつけているんですね。
これはわかります。
でも不思議なのは御堂にさらに御をつけて、御御堂といったりするんですね。たしかに口でする分には御御堂という言葉は丁寧な感じがしますが、字にすると、御の文字を重ねているので不思議な感じもしませんか。
ちなみに日常的にも似た言葉はありますよ。
例えば、足のことを御御足といったりしますよね。
口にする分には響きがよくすんなりと聞こえますが、いざ文字にすると変な感じがしませんか?
私は本山に出勤するための衣を持参しましたが、準備をするときいつも、なぜ下賜された衣体のことを御下賜衣体というんだろうと不思議に思ってしまいます。
もちろん日本語的には、敬意を表す言葉は重ねると、丁寧さがより増しているように聞こえるので、下賜という言葉に御がついても何もおかしなことではないのかもしれませんけども。
さて、以上で、今回の雑談を終えますね。
こうして本山にお参りしてみると、人の集まり方だったり、季節の感じ方だったり、言葉の言い回し方だったり、何気なく目にし耳にして当たり前だと思っていることの中にも、いろんな不思議があるなあと改めて感じます。
お寺にお参りすること、ましてや遠くの場所にある本山に行くことなんて、忙しい毎日の中ではなかなか難しいことなのかもしれません。
でもやっぱり行ってみると、いろんな気づきに出あい、立ち止まって考える機会を得ることができます。
これからもこういった「なんでだろうなあ」という気持ちも、大切にしていきたいところです。
今回は本山興正寺の春の法要にお参りして感じたことを、雑談のようにお話ししてみました。
それでは次回もまたお聞きくださいませ。
「御」が重なる不思議な日本語たち
今回の音声の中で出てきた「御下賜衣体(おかしえたい)」という言葉。
文字にしてみると、「下賜」という目上の者から賜った経緯のある言葉にさらに尊敬の「御」がついているのは不思議な感じがします。
また「御御堂(おみどう)」という言葉。
「御」が二つも重なっていて、こちらも少し不思議な感じがしませんか。
でもこうした「御」が重なる言葉は、日本語の中にいくつもあります。
たとえば
- 御御堂(おみどう)
- 御御足(おみあし)
- 御御御付け(おみおつけ→お味噌汁のこと)
こうして並べてみると、「御」が二つ以上ついていて丁寧すぎないかなあ?とも思えます。
「御」は重なるのはなぜ?
もともと「御(お・み)」という言葉は、相手や対象への敬意を表すためのものです。
たとえばお寺の建物の「堂」に「御」をつけて「御堂」。これだけでも十分に丁寧な言い方になりますよね。
ところがさらに「御」を重ねて、「御御堂(おみどう)」という表現もあります。
文字にすると変な感じがしますが、声にすると、「みどう」よりも「おみどう」の方がより柔らかく、より丁寧そうに聞こえるのは私だけでしょうか?
文字にすると違和感でも口にすると自然だよね。敬いは感じ方が大事なのかな
文字に書こうとするとくと違和感があるのに、話すと自然に聞こえるのは不思議な感覚ですよね。
御御堂や御御足と、こうして漢字で並べると「御が多すぎない?」と感じますが、実際に「おみどう」「おみあし」と口にすると、不思議とすんなり耳に入ってきます。
今回の音声でも話した「御下賜衣体(おかしえたい)」のように、もともと敬意を含んだ言葉にさらに「御」がつく例もあります。
日本語的に考えれば、「敬意に敬意を重ねなくても」と思えるかもしれません。
ですがこれは相手をどのように敬っているのか・大切にしているのかを表すためなのではないかと思います。
だからこそ、文字にしたらちょっと過剰に見えても、響きとしてすんなり受け止められるから、今も使われているのだと思います。
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Q&A
- Qなぜお寺に入りにくいと感じるのか?
- A
おそらく、「用事がないと入ってはいけない場所」という意識があるからではないだろうか?
一方で日本の文化や宗教に触れ合うと二歩人来ている外国人観光客にとっては、宗教施設は気軽に訪れられる場所なのではないだろうか。
お坊さんの私からすれば、お寺は用事がなくてもお参りしてもいい場所なので、ぜひ顔をのぞかせるだけでも、ちらっとご覧になっていただけたらと思います。特に浄土真宗のお寺の多くは、駐車料金も拝観料も0円でいただいていなかったりします。
- Q法要の意味が分からなくても参加してよいのでしょうか?
- A
まったく問題ありません。
お寺でしている仏教の法要は「理解してから参加するもの」というよりも、「ご縁に触れる場」としての意味合いも大切にされています。
わからなくてもいいんです。
とりあえずお寺の門をくぐり、手を合わせ、仏様を拝み、その場の空気や時間を味わってください。
- Qお寺の紋の役割は?
- A
お寺の紋はその寺院の歴史的なつながりや由緒を示すものです。
また、視覚的な象徴としてお寺のアイデンティティにもなっています。
ちなみに自防円龍寺は、剣花菱の紋です。これは私の先祖が、ここ香川県丸亀金倉を収めていた時から使われていた紋です。


