まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。
ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬる我等ごときのいたづらものを、たすけんと誓いまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず弥陀如来の御たすけにあづかるものなり。
このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。
これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明三年十二月十八日
第一帖の第3通『猟すなどり章』より
まず、この浄土真宗の信心の内容は、ことさらに私自身のこころの悪いことや、また正しくない思いやとらわれの心が起こることを、やめなさいというのではありません。
ただいつものように、商売をし、人のもとで働くことをしなさい。必要によっては、生き物を殺し、獣をかり魚をとることなどもすればよろしい。
このように朝から夕まで、浅ましい罪業ばかりに迷い悩んでいる私たちのような人々に対して、「何のようもなく助けるぞ」と誓われたのが阿弥陀仏の本願だと深く信じて、素直な気持ちで疑いの心なく、阿弥陀仏の慈悲の願いを受け入れなさい。「南無阿弥陀仏」と、ただお任せいたしますという一つの信心が阿弥陀仏より頂けたなら、かならず阿弥陀仏がお浄土に生まれさせてくださります。
この上には、どのような気持ちで、お念仏を申せばよろしいのでしょうか。
それは阿弥陀仏のお浄土に生まれさせていただくことが、阿弥陀仏からの信心のはたらきによって達成しているのですから、「有難くも助けてくださった」というその御恩にお応えし感謝するために、私のいのちがある限り、お念仏すればよろしいのです。
このことが、浄土真宗の信心の定まった念仏の人というのです。
1471年12月18日、謹んで書き記しました。あなかしこあなかしこ