節分の日に思う。鬼とはなんぞや。

こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。

今年の節分は2月3日でした。

最近では恵方巻きというのがメディアに取り上げられていてだいぶ定着しつつあるようです。(羨ましいね)

また、日本では古くから「節分の豆まき」がありますね。全国各地の神社・寺院で広く豆まきのイベントが行われています。

しかし浄土真宗のお寺やお坊さんはあんまり豆まきを話題に挙げません。

それはなぜでしょうか。

今回は鬼について書いていきます。

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鬼とはいったいなんだろうか。

節分の豆まきの掛け声にはいろいろありますが、代表的なものとしては「鬼は外、福は内」ですね。

縁起が良さそうなフレーズですね。

大豆を鬼に投げかけて邪気を払うということです。

でも鬼とは何でしょうか。

家庭で豆まきをする時はお父さんとかが鬼の仮面をつけて鬼になりきりますよね。

鬼は姿が見えないから鬼に見立てた人や物を用意しているんですよね。

正直、現代の日本人の多くは鬼の存在を信じていないのではないだろか。だって豆まきの行事を見ていてもとても鬼気迫るような感じで豆をまいていないんですから。

節分の行事に参加しておきながら鬼が何かを分からない・信じてもいないのにはいかがなものだろうか。

とりあえず何か縁起の悪そうなものが鬼なのだろうか。それとも鬼は地獄に住むものだ・こっちに来るなという考えだろうか。

浄土真宗と鬼。鬼とは何か。

豆まきをしている人はおそらく「鬼=自分にとって都合の悪いもの」として考えているのではないだろうか。

浄土真宗的な考え方として、鬼は自分の中にこそあるということです。

邪悪な鬼があたりに漂っていて自分に憑依しないように追い払うのではなく、鬼の心がすでに自分の中にも常にあるということです。

鬼というのは恐ろしいものであり、怒りや悩みや苦しみの中で生きている地獄の世界の生き物だと考えられています。しかし私たちは絵では地獄の様子を目にしますが、実際には地獄に行ってきた人はいません。ですので鬼を見た人はいません。

だから鬼というのが漠然としていて、自分には近づいてほしくないという曖昧な自分勝手な考えとなっているのではないだろうか。

しかし浄土真宗では自分の心の在り方そのものが、鬼の心そのものだといただけます。

誰も鬼のように怒りの形相はしたくありません。他人を傷つけたいとは思いません。

しかし人よりも良い生活をしたい・得したいといった欲も多いですし、他人の行動言動に怒ったり嫉妬したりと、自分の中の鬼の心が絶えず表に出てきてしまします。

鬼とは煩悩のようなもので、生きている以上必ず付きまとうものであり、煩悩(鬼)なしには生きられないのが私たち人間なのです。

節分と鬼。鬼は追い払うものではない。

「鬼は外」は一見縁起が良さそな言葉です。

もちろん鬼がいなくなれば素晴らしいことでしょう。

ですがなかなかこの私の心の中に住みついている鬼は無くなりません。

鬼を払うのではなく、鬼の心が常に私の中にあるんだと否定することなく積極的にみつめ、煩悩のような悩みや怒りといった苦しみがあることが逆にありがたいことだなあと気づいていくことです。

自分の中の鬼・煩悩が多ければ多いほど、そんな自分にしっかりと気づかされた時に徳が多くなります。

自分の中の鬼を見つめようとすることによって、自ずと仏さまの願いのはたらきに出あうご縁となるからです。


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さいごに。鬼を肯定しているわけじゃないよ。

鬼がいなくなればいいですよね。

それこそ仏様のように澄み切った心を持てれば一番いいでしょう。

しかし私の中の鬼はそうそういなくなりません。ちょっとしたことで地獄の生き物になってしまいます。(例えば聞く耳を持たなくなりますね)

浄土真宗は鬼が自分の中にもいるんだと考えます。鬼を外に追い払い無くなってほしいと思うのも自己中心的な願いだと考えます。

しかし自分の中には鬼がいるんだから、鬼のような生き方をしてもいいという考えではありません。

鬼のような煩悩だらけのどうしようもないこの私が阿弥陀さまの救いの目当てあったんだなあと気づき、鬼を無くすのではなく鬼を見つめ、自分の力だけではどうしようもないところがあるんだなあと知ること、そして仏様の願いに向き合うことです。

節分の日に福を願い・鬼を払いたいでしょう。

しかしちょっと立ち止まってみて、漠然とした鬼を払おうと思うのではなく、ひょっとして自分そのものが鬼だったんじゃないのかなあと考えてみてください。(なかなか自分の心から鬼が生まれているとは思えないかもしれませんが)

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