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仏教で使われている中道(ちゅうどう)って難しい言葉やね。

投稿日:2017年5月5日 更新日:

こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。

2017年5月現在では世の中ではフランス大統領選挙が決選投票が目の前に迫ってますね。

その中でニュースを見ていますと「中道派の○○」と気になる言葉が使われています。

中道(ちゅうどう)とういう言葉は仏教でもしばしば使われるのですが、なかなかに難しい言葉ですよね。

ところで仏教で使われている中道と政治で使われている中道って同じ意味なんですかね。

気になりますね。

ここでは難しくせずに単純に中道について話をします


お釈迦様は中道をどのように言ったのか。

お釈迦様は悟りを開かれた後、5人の修行僧に一番最初の説法をされました。

これを初転法輪(しょてんぽうりん)と言われており、その中のテーマの一つが中道でした。

当時の修行者は体を傷めつけるような苦行をすることによって悟りを得られると考えられていましたが、お釈迦様は自身の苦行によって苦行では悟りを得られないことに気づき、またその逆の自分の思った通りの不自由のない生活すなわち快楽によっても悩みが取り除かれないことを経験しています。

どのような内容だったかは正確には分からないそうですが、おそらく欲望のおもむくままに快楽に耽る生活と心身への苦行による修行をともに否定して、その両辺に偏らないこと(中道)が悟りに至る方法だと説明したのでしょう。

政治で使われる中道とは何?

政治の世界では頻繁に右派(うは)と左派(さは)が使われますね。

右派とは保守主義のことで従来からの伝統・習慣・制度・社会組織・考え方などを尊重し、それらを保存・維持していく集団ですね。
左派その逆で革新主義のことで既存のものをより適切と思われるものに変更していこうとする集団ですね。

右翼や左翼はこの思想がさらに加速していて急進的な印象が持たれがちです。極左・極右はさらにさらに過激だという印象になっています。

本題にもどって右と左があるならその真ん中があり、それが中道と言う言葉です。

政治では保守や革新の中間的な立場(どちらにも偏らない立場)でどちらかと言えば穏健的だとされています。

社会状況によって右派や左派の主張は違うため、政治で使われている中道とは右派・左派とはどちらとも異なる主張であり、政治の受け皿の一つとされることがあります。

仏教での中道の考え方。パーリ語経典より

一本の材木が、大きな河を流れているものとする。その材木が、右左の岸に近づかず、中流にも沈まず、陸にも上らず、人にも取られず、渦にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついに海に流れ入るであろう。

この材木のたとえのように、内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず、正にも邪にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修めるものの中道の見方、中道の生活である。

道を修める生活にとって大事なことは、両極端にとらわれず、常に中道を歩むことである。

パーリ『相応部経典』より

参考掲載本:さとりの知恵を読む―仏教聖典副読本(仏教伝道協会)より

ここでは河で流れている一本の木が、何にも引っかかることなく、スムーズに身を任せることによって海に至るたとえ話が紹介されており、仏道のある生活では両極端に偏らないことがすすめられています。

結局、仏教的な見方の中道とは?

中道という言葉が使われている時は、不都合な時やどっちつかずの時にどちらかと言えば悪いイメージで使われている印象です。

中道と言う言葉が思い起こされるのは、自分が怒ったり苛立ったり不満に思ったりと、我が我が・俺が俺がと自分の意識や主張にとらわれている時だと感じます。

仏教では有ることや無いこと(有無)や正しいことやおかしなこと(正邪)にもとらわれないことも中道の見方だと言っています。

「自分が」や「自分の」という思いが強くなっていくとだんだんと極端な考え・こだわりを持つようになってしまうので、どんなに正論を言っているつもりでも、なるべく両極端にとらわれない見方をするように努める必要があるのではないでしょうか。

世俗に生きている以上自分中心の生き方になってしまいがちですが、できるだけ中道を意識することによって偏った考えを持たないことが日々を平穏に過ごせていけるのではないでしょうか。(口にするのは簡単だが実践するのは難しい)

さいごに。中道は難しい。分からない。

中道って難しい言葉ですよね。

お坊さんの私も正直全く分かっていません。

中道とは両極端にとらわれないという意味で説明されますが、はたしてこれが中道と言う言葉の真理なのでしょうか。

中道とは「両極端でなければいいのか」とも思いがちでしょうが人によって怒り・喜び・楽しみ・悲しみなどの程度は異なっているはずですし、単純にその中間付近が中道ではないはずです。

おそらくですがお釈迦様が伝えたかった中道とは、「両極端(苦・楽)にとらわれないこと=苦・楽どちらの道(修行・生活)も正しくないこと」だと伝えたかったのではないでしょうか。
つまりその二つの面(苦・楽)に拘って生きている限りは悟れないよと言いたかったのではないでしょうか。

真宗で言えば、阿弥陀様のはたらきによってどのような人でも救われるからと言って好き勝手に生きるのでもなく、念仏によって救われるからといって回数にこだわってひたすらに唱えるのもおかしい。どちらの面も正しくない。

中道とは極端な面を知ることによって意識できるのであり、中道を意識することによって、最適な道を歩むことができるのではないだろうか。

かなり抽象的な話になっちゃったけど、結局私も中道はよく分かっていません。


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もうちょっと余談。中道は龍樹の空に似ているかも。

よく分かっていない私がさらに話を進めると、なおややこしくなるかもしれませんが、中道とは龍樹菩薩の「空(くう)」という思想に似ているような気もします。

空(くう)とは空(そら)とは違います。

空(くう)とは「こだわってはいけない」という意味の言葉です。単純に言えば、「こだわると判断を間違えてしまいますよ」ということです。

空とは非常に難しい言葉です。なぜなら説明しようとすると何かにこだわって、何かを支えにして、話をしなければなりません。しかし空はこだわってはいけない。じゃあ説明できない。どうすりゃいいんだと。

空という言葉は「0(ゼロ)」にも似ています。

0(ゼロ)があるのか、ないのか?

あると言っても、ないから0なんでしょう。0はあると言っても正しくない、ないと言ってもやはり正しくない。こだわりをもって見てはいけない。

つまりは「こだわってはいけないと言いながらもこだわって。こだわっていながらもこだわってはいけない、こだわらないと言わないと駄目だとする」と、「この非常に微妙ななんとも表現のしようのないスレスレを見ていくこと」、これが中道にも似ているような気がします(違うかもしれない)し、実践するのは到底困難なことだと思います。

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