こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
今回の話のテーマは常々から私が思っていることです。
それは「仏教を学ぶには何をすればいいのか」ということです。
というのも最近ではインターネットで仏教の知識を得ようとする人が多数いるでしょうが、はたして仏教を学ぶ手段として相応しいのでしょうか。
「仏教を勉強するにはまず何から、そしてどのようなことを知ればいいのか」
そのことについて書いていきます。
まずは結論から。勉強は不要。
「仏教を学びたい」という気持ちが起きたとしましょう。
すると私たちはまず何か本を読んだり、インターネットで検索したりしますよね。
しかし現代では様々な情報が手軽に入ります。
浄土真宗や日蓮宗や真言宗や禅宗といった伝統教団の教えもあれば、新興宗教の考え方もあります。また僧侶の私が書いていますようにお坊さん個人が好き勝手に書いている情報もあります。
また日本のことのみならず中国やインドといった世界中の宗教の考えも見つけることができます。
興味のある人がどんどん自分で情報を得ることができるのですが、一方で真偽不明の情報を真に受けたり、一つの情報を見てあらゆることを知った気になったりします。
特に気を付けないといけないのが、手軽に得られる情報というのは結局のところ「自分にとって都合の良い情報・考え方のみ」を選び取ってしまいがちになることです。
仏教を知りたいから勉強するのは立派なことなのですが、個人的には勉強をして仏教を知ろうとするのは危険なことだと思います。
仏教を学ぶにはまずは「お参り」がおすすめ。
浄土真宗をはじめ仏教のあらゆる宗派では、仏様へのお参りを大切にしています。
仏様や先人らを偲ぶことなく、ただ仏教を学問としてのみ捉えている宗派はないでしょう。
なぜお参りすることが大切なのでしょうか。
それは仏教がこの私のいのちに目覚めること・真理に目覚めることを目的としているからです。
人間というのは悩みや苦しみ迷いというのが常に持っています。そして必ず避けることができない死という苦しみがあります。
しかし私たち人間はその苦しみがあるにも関わらず、そのことに対して非常に無関心な生き方をしています。
それは空しいことですよ、と教えてくださっているのが仏教です。
だったらやっぱり仏教を勉強したらいいじゃないと思うでしょう。
しかしですねえ。私たちはこの私の持つ悩みに対して真っすぐに向き合おうとすることなく、すでに用意されている答えを手当たり次第にかき集めまとめて、知識として持つことによって持つことに安心しているのではないでしょうか。数多くのお経文や書物を読み知識を蓄積したとしても、この私の人生に対する問いには答えられないでしょう。
知識を蓄積することによって世の中のあらゆる出来事に対して用意した答えによって分かりきったことと無関心になるのではなく、誰の代わりにもなれないこの私にとって何にが大切なのかに気が付くのが重要です。
仏教を知るのであれば、学問よりもまずはお参りをするべき。
お参りをするとは、お仏壇やお寺に参ること。
私たちは難しい言葉や難しい解釈を知り数多くの書物を読み、多くの知識を得ることが勉強だと感じています。
しかし仏教においてはそれは錯覚ではないでしょうか。
例えば浄土真宗本願寺派の8代目門主である蓮如上人は次のようなお手紙を残しています。
それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。
たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。
しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしるたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。(以下略)
八万法蔵の章より引用
簡単に説明すると、あれやこれやと勉強をして物事を分かったつもり・知恵のあるような人になったとしてもそれは人生にとって不要なこと。大切なことは知識を得ることではなく、私たちに向けられた仏様の願いに気がつくこと。
勉強するのは悪いことではありません。
しかし勉強をして知識を得たからといってそれによってこの私の悩みが解決し、自分の生き方に芯ができるのではありません。
むしろ下手に偏った知識をえることで、「世間でやっているから」・「まわりの人が言うから」と安易に自分の都合の良いように取り込んだり、自分より劣っている人を見て意味のない優越感を持ったりします。
仏教では仏様にお参りします。簡単な所では家のお仏壇に参ることですね。
仏様にお参りするというのは私のお願い事をするために行うのではありません。
仏様の私に向けられた願いに気が付くためです。
仏教とは知識を得ることが教えではありません。ありのままの自分に・事実を事実として受け入れることができる生き方に気が付いていくことです。
自分のありのままの姿がそのまま受け止めることができずに、自分の都合の良い考え方をすることは「ありのまま」から「わがまま」の世界に変わってしまいます。
仏教とはいのちの尊さ有難さに気が付いていことであり、自分の都合のいいことが当たり前の世界と思うのではなく、生きている以上、苦しいことや悲しいことも必ずあるのだと気づくことが日々の仏様参りで気が付かされていきます。
仏教とは生きた教えであり、日々のありふれた生活の中でこそ気が付かされる仏様の教えがあります。
ですから私のおすすめはお仏壇参り。それもなるべく毎日。お経文が読めない・意味が分からないくてもOK。手を合わし頭をまずは下げてみましょう。
お経文が読めて、意味が分かったってそれがどうなるの。
さて仏教を学びたいという人のほとんどは「お経文を読みたい。意味を知りたい」と尋ねてきます。
でもですね。さっきも言いましたように仏教とは生活の中で問い訪ねていくものであり、この私に対して気が付いてくれよという仏様の願いに出あっていくことです。
お経文が読めて意味の分かる人が救われるのが仏教であれば、そんな仏教は捨てた方がいいんじゃないのかな。
仏教(特に浄土真宗)はあらゆる人が救われる教えです。なぜならそれが仏様の大慈悲だからです。
もちろんお経文が読めるのは素晴らしいことです。仏様の金言ですからね。
ただ気を付けないといけないのが、読めたからと言って得意げに分かったつもりになってはいけません。
妙好人の方々が喜ばれたように、お経文の一文字一文字が「かならずかならず助けるぞ」と仏様の願いとしていただくことが大切です。
私を含めなかなかそのような仏様の願いに気が付くことは難しいのですが、ただお経文を読むことを重視するのではなく、仏様の言葉が私の口から出ているのだといただくことです。
「論語読みの論語知らず」という言葉がありますが、「お経読みのお経知らず」になってはいけません。
だから私は仏教を学ぼうとする人にはお経を学ぶことはすすめたくありません。
世の中にはいろいろな仏教書物があるがどうする。
仏教の教えを学問として真面目に勉強すれば大変難しい教えだと思います。
私も本山で学ぶときに難しい眠たくなるような本を用意しました。しかしそれが自分のものになったかと言えば疑問符です。
もちろん僧侶の私としては非常に為になる勉強でした。
しかしそれが人生の中で生きる仏教だったかは怪しいです。
例えば仏教を学びたいと思う人はよく聞く般若心経をとりあえず知ろうとしますよね。
しかし本屋に行けばずら~とたくさんの解説本があるようにどんなに読んでも知識で理解できるようなものでありません。また本やネットで知識でも結局は偏ったものの見方になります。
仏教がどんなものなのかなあ~と軽い気持ちで本を手に取るのはOKなのですが、書物を読み漁って知識を得ようとするのは危険だなあと思います。
特にマニアックな深い学問として学ぼうとすれば無機質でツマラナイものになるでしょうから、漫画で知る仏教みたいなものがあれば軽い気持ちで仏教ってこんな感じかなあと知る程度にとどめてはどうかな。
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さいごに。お坊さんはなぜ仏教を知識として学ぶ。
仏教を学ぼうと思ったとき、一般にはお坊さんからお勧めの書物を紹介されたり、自分で本やネットから知識を得ようとしますよね。
ただ仏教とはこの自分のいのちについて生涯を通して問い訪ねていくなかで気が付いていきます。
知識を得たとしてもそれによって苦しみや悩みが無くなるわけではありませんし、変な優越感によって自分の都合にあったものの見方になりがちです。
ではなぜお坊さんは勉強会や研修会に参加し、難しい仏教思想やお経文を学ぼうとするのでしょうか。
それはお坊さんは仏教の教え・考えを伝える使命があるからです。
人に仏教の教えを伝えていくことがお坊さんにとって大切なことであり、決して勉強をすることでより救われるからではありません。
勉強をすることにより仏様に参りお給仕するだけでは表現できなかったことを、学んだ知識による言葉によって表現できるからです。
言葉によって表現できることによってご門徒さんなどから色々仏教のことについて尋ねられた時に、なるべく伝わりやすい言葉を選ぶことができます。
お坊さんと一般の人との違いは、仏教の教えを言葉にできるかできないかの違いでしかないと思います。
お坊さんは知識として仏教を学びます。
しかしその姿に一般の人が憧れるのではなく、仏教に興味が湧いたのであれば難しい本や偏った知識を得ようとするのではなく、例えばお仏壇参りやお寺参りなど、簡単にできることからはじめていき、興味のあることから仏様と接する機会を増やしていってはどうだろうか。
仏教を知りたいからといってお坊さんの様に学問や作法を学ぶのではなく、日々のお勤め・お参り・合掌の中で仏様の願いに気が付くていくことをお勧めします。
勉強しなくても仏教は学べますよ。
仏教のお話を聞きたいのであれば、お参りに来たお坊さんに尋ねてみたり、お寺のお座に参り法話を聞いてみることをお勧めします。