【仏教コラム】心のいたみ

かっけい
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円龍寺は丸亀市仏教会に加盟しています。

私の祖父、金倉孝円(円龍寺22世)が、1974年に佛教まるがめに載せた文章を紹介します。

心のいたみ

 それはもう十年も前になるであろうか。どうも体の調子が悪くて医者に診てもらおうか、いつ行こうかと思案していた頃友人に誘われて胃の集団検診を受けたことがある。バリュームを飲みレントゲンにかかって旬日後胃癌の疑があるから精密検査を受けよとの便を受け取った。再びバリュームを飲んでレントゲンにかかったり胃カメラで胃の中の写真をとってもらったりした。そして慢性胃炎だと診断された。胃癌でなくてホッとしたもののその後も胃の調子はスッキリしなく薬を飲みながら今に至っている。体の変調はいろいろの病を発し若かった健康な時がなつかしく健康のありがたさを感ぜずにはいられない。それかといって寝こむほどのこともなくおかげさまで御仏前のお給仕をさせてもらっている。

 健康な時、私達は医者の存在を必要としない。然し体のいたみや不調を感ずれば薬をのみその上医者の存在がどうしても必要となってくる。

 心のいたみや不安がなければ宗教の存在を必要としない。然しながら心のいたみを感ぜずに一生を送れる人はまずあるまい。人間ならば、いやよりよく生きようとする人間ならばなお一層心のいたみを感ずる筈である。欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむ心など我欲は泉のように自身の中から湧き出てくる。止めようと思っても次から次へと、中から中から出てくるのである。我欲のためにどれだけ多くのものが傷つけられ苦しめられ毒されているであろうか。そう気付かされた時私達は罪の深さと愚かさに心がいたむのである。

 親鸞聖人はその書に「誠に知んぬ 愚禿鸞(ご自身の名) 愛欲の広海に沈没し 名利の大山に迷惑して定聚の数に入ることを喜ばず真証の証に近づくことを快まず 恥ずべし 傷むべし」と詠嘆されている。愛欲や名誉に性根を奪われて真実の世界に入ることをのぞまない心のいたみを嘆いていられるのである。「恥ずべし 傷むべし」のお言葉は聖人の真実を求めて止まない純粋さや妥協を拒否するきびしさの中から必然的に出てくる悲嘆の叫びなのである。

 いたみ苦しむ人は他人のいたみ苦しみがわかる。人生に泣く人は人生に泣く人のいたみを知る。私達が心のいたみを感ずるとき聖人の悲嘆に共感をおぼえ聖人の歩まれた道を学びたいと思う。聖人はよき友でもありよき師である。

金倉孝円

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