こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
皆さんの宗旨はなんでしょうか。
浄土系の浄土宗・浄土真宗でしょうか。
それとも日蓮宗や真言宗・禅系などでしょうか。
はたまたキリスト教系やイスラム教などの宗旨でしょうか。
ひょっとすると無宗論でしょうか。(私は無宗教という言い方をしないので)
それぞれ皆さん思い浮かべる宗旨があるでしょうが、はたしていったいどれだけその教えのことを知っているでしょうか。
振り返ってみますと全く知らなかたっり、知っていたとしてもそれが正しくないことも多いでしょう。
私の信仰する宗旨の浄土真宗でもご門信徒の方と話をしますと誤解だらけのように感じます。
浄土真宗への誤解の一部。
- 他力は他人任せ
- ご冥福をお祈りします。なぜ
- 清めの塩や茶碗を割る。なぜ
- 念仏を言ったらいいんでしょ
- 悪人が救われるんでしょ
- 神と霊と仏の区別がついていない
- 戒律ないんだからお坊さんは何をやってもいいんでしょ
- 葬儀並びに告別式
などなど思いついた順に少しだけ挙げてみました。例を挙げるときりがないからね。
皆さんはおそらく中学校・高校で世界や日本の宗教について学び、最低限の知識はあるでしょう。
そして大学入試に出てくる問題でも宗教に関する問題が出題されます。
このことによって一般の人の宗教に関する知識が身に付くのは有り難いのですが、誤って中途半端に各宗派の教えを知った気になっていることもあります。
真宗の有名な言葉に「悪人正機」がありますね。センター試験でも出ました。
悪人の意味を問われることが多いのですが、真宗の教義としての悪人を知っている人はどれほどいるんでしょうかね。
そしてテストで問題文に出てくる一文は冒頭の『善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。』だけですよね。そのあと何と続くか読んだことありますか?『しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや 善人をや』ですね。ここで一般の人が勘違いしそうなことについて述べています。
テストで出てくる言葉として悪人を知っていたとしても教義(教え)としての悪人を知らないので、悪人だけが独り歩きしている印象です。
他にも他力も怪しい状況です。
他力と自力の違いや浄土宗や浄土真宗の他力の念仏や本願についてどこまで理解しているのでしょうか。
一般的な最低限の知識として仏教の言葉を知るのは有り難いのですが、勘違いした状態でその宗派を知った気になっているのは危ういと思います。人付き合いの面でも。
例えば葬儀ではその様子が特に表れます。
清めの塩を使わないこと・茶碗を割らないこと・火葬場までの行き帰り道を避けないこと・冥福を祈らないこと・告別式をしないことなどなどなど、たくさんの勘違いがあります。
葬儀社の人もわざとやっているのか知ったうえでやっているのか、真宗の葬儀なのにおかしなことをします。そろそろだれか葬儀式並びに告別式に突っ込んでほしい。なんで告別式をする必要があるんだ。
各宗派の教えを勘違いすることの危険性。
お坊さんの中にもきっつい人はいますよ。
「あれはちがう」、「こっちが正しいんや」、「あそこの言っとることはおかしい」などです。
的を射てるのならよろしいのですが、そうでないときもあります。
特に他宗の教えについて触れるときは細心の注意が必要です。
私は極力他宗については口を出しません。
なぜなら私は本当の意味でのその宗旨を知らないのですから。
知った気になって話をするのが一番危険です。
自分の信仰している宗旨でもまだまだ怪しいところがあるはずなのに、どうして他宗のことを他の誰よりも分かっているのでしょうか。少しのことを知って相手のことを分かった気になっていても、そこから先は偏見によって物事を語ってしまう恐れがあります。
宗教が大したものではない・無い方が良いと思ってしまう人は、この他の宗旨への非難・批判またそれが拡大した争いが大きな原因ではないでしょうか。
もしも「自分達の教えが正しい。他の宗教はダメだ」とこちらのことを全く知らない人から言われたらどう思いますか。カチンとくるでしょう。
相手を蔑んで自分の教えや考え方が何よりも優れていると思い込むことがどんなに危険なことなのか、そして間違った考えをさも当然のことのように広めること、そのことによって自分のアイデンティティーを確立していくこと、誰も幸せにならないですね。
ちなみに蓮如上人と言われる浄土真宗のお坊さんはお手紙の中で以下のことを書いています。
そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。
まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺あり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。
されば『経』にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。
これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。御勧章 一帖十四通目 立山白山より一部
自分の考えを持ち上げて他を貶めるのは簡単です。
しかし無用な争いや摩擦が生じてしまいます。
どうして仏様の法をいただいた人が他の仏法について誹謗できるのでしょうね。
たとえ仏法でなくても、その人にとっての拠り所としている教えを誹謗するのは大変危険なことですよね。
ではどうしたら誤解が減るのか。
私は浄土真宗のお坊さんです。
ですから専門は浄土真宗の教え(教義)や作法となります。
一部教養として日本仏教の各宗派のことや世界のいくつかの宗教について知っている程度です。
ですから真宗以外のことをお参りの先で質問されても答えられないことが多々あります。テキトーなことは言いたくないので。
お坊さんも命が尽きるまで日々学びながら生きています。
自分の宗派の教えを学ぶのなら、本山や別院などでの勉強会や研修会などに参加すればいいのです。専門の知識を持った諸先輩がいらっしゃるので。
しかしそれだけでは他宗のことが分かりません。
一番の方法は他の宗派の僧侶と交流することです。
それはどのような形でもいいと思います。
道端で出あって挨拶するだけでもいいですし、お寺にお参りするだけでもいいでしょう。それだけで自分の宗旨との違いが目に見えるはずです。
私は幸いに市の仏教会に入っています。
すると会合の後には懇親会があります。勉強会ではないので、日常のことや俗な話も多いのですが、他の宗旨の僧侶と接するだけでも学ぶところは多くあります。
どうしても知りたいことがあればそのことについて尋ねればいいのですから。
このことは一般の人も同じことが言えますね。
他の宗旨の方の法事に行けば全くお勤めやお話の内容が違っていることに気が付くはずです。
自分の宗旨のことだけに拘っている人は、どうしても足らない知識によって偏見が生じてしまいます。交流していくことで違いが見えてきますし、自分の宗旨について別の視点からとらえることが可能になってきます。
まずは接すること、できればお話もすること、さらには質問することです。
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さいごに
浄土真宗はおそらく日本でもかなり名のある宗旨でしょう。
南無阿弥陀仏という名号を知らない人でも、「なんまいだ~」とお坊さんお札の枚数を数えているんと揶揄される言葉で知っているかもしれません。
ただ南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)のはたらきを知らない人が多くいらっしゃるでしょうし、なぜこの言葉が真宗では要のように捉えられているのかを知らない人だらけでしょう。
(キーワードとしては「本願名号」です。よかったら調べてみてね)
またさいごになるのですが、仏教で大切なことは仏法です。
仏様の法をいただいていくことです。
仏様の法とは知識ではなく、智慧です
知識で救われるのであれば、お坊さんや学者さんやテストで満点がとれる人が救われるということになります。ちがうでしょう。
仏様の法とは衆生を救う願いです。それが菩提心なのですから。
それは仏様の智慧で救われるのであり、教養があるから・人よりお金や物を持っているから救われるのではないですね。
知識というのは自分の旨となる教えが確かなものだと確認するためのものであり、他の考えの人と話をし、自分の考えを伝えるために必要となるものです。
決して知識があるからと言って人より優れ救われるものでありません。私はどこまでも仏様の智慧と慈悲をいただいていきます。