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浄土真宗僧侶の私は檀家(だんか)という言葉が好きじゃない

真宗僧侶のかっけいです。

今の時代、お寺の護持を続けることは難しいものです。理由の一つは「寺離れ」というのが挙げられます。(実際には寺だけでなく家や地域や家族からも繋がりが希薄化しているのですが)

さて寺離れの話になりますと、たいていの場合、檀家制度(だんかせいど)がキーワードとして出てきます。

しかし浄土真宗のお坊さんからしてみますと、檀家という言葉はあんまり気持ちの良い言葉ではありません。ですが実際にご門徒の方からは『お寺さんは檀家がどれくらいあるのですか?』と質問されるので、仕方なく相手に合わせて檀家という言葉を使うこともあります。

今回の話は檀家という言葉をあまり使わない理由と、それに代わる言葉を紹介します。

なお浄土真宗以外の仏教宗派では檀家を使用することもごく普通にあります。他宗を批判しているわけではないことはご理解ください。また寺院によって意味合いが変わることもあります。

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檀家とは何?

檀家とは特定の寺や僧侶を支えてくださる家のことです。家とは親族が代々に渡り家庭生活を営む場のことです。

檀家制度は江戸時代に幕府よりできたもので、特定の寺と特定の家がつながることを強制された制度です。今では檀家制度はありませんが、今でもその名残か、家の宗教といえば檀家制度からの特定の寺の宗派をさしたりします。家単位の宗教とも表現されます。

結果として特定の寺と古くから繋がりがあるので、寺にお骨を預けたり墓があったり、また葬儀・婚礼などと人生の節目となる仏事を自然と依頼する関係になっています。

浄土真宗では檀家を積極的に使わない理由

門徒(もんと)・信徒(しんと)を使う

浄土真宗では門徒(もんと)あるいは信徒(しんと)とという言葉を使います。それらを合わせて門信徒と表現することもあります。

門徒とは「同じ一門の徒輩」をの意味です。同じ一門とは阿弥陀仏の教えすなわち浄土門の教えを聞いていくことであり、徒輩とは仲間たち・ともがらという意味です。

お寺に参るということはその寺の門をくぐり仏法に出あっていくことなので、そのことからも特定のお寺に帰属する人のことを門徒と呼びます。

信徒とは門徒よりももっと幅の広い言葉です。

特定のお寺の門をくぐったりそのお寺の仏教行事に積極的に参加することはないのだけれども、縁ある時にはその寺にお参りしたり、その寺の僧侶を仏事に案内することがあります。

また別の意味としては、家族の中でも別の宗派を信仰していることもあります。門徒として普段お参りする寺はあるのだけども、旅行の際などには信徒として他の宗派のお寺に参り勉強会や写経などに参加したりすることもあります。

檀家と門徒は同じと意味だと言われるが……

檀家と門徒は同じだと言われることもあります。たしかに特定のお寺に所属した家とお寺との関係という点を見れば同じ意味になるでしょう。

しかし浄土真宗ではあまり檀家は使いせん。

なぜならお寺も家(門信徒)もどちらも支えあっている檀那の関係であるからです。

お寺が一方的に檀家から金銭や物を受けているのではなく、私たちは共に南無阿弥陀仏のお念仏にであった仲間という考えがあります。

お寺というのは門信徒の金銭面や信仰の支えがあり、僧侶というのは門信徒に代わり念仏道場として聞法の場としてお寺の護持運営を任されています。門徒と寺との間に主従関係はありません。

たしかに私たち僧侶は門信徒からお布施としてお金を受け取ります。しかしそれは寺のお金で仏様に使い、お寺の人が自由に使うお金ではありません。お坊さんは財施としてお布施を預かり、仏教行事の場や法話をすることによって法施をお返ししています。

家の宗教に留まりそうな檀家という表現ではなく、浄土真宗の教えを信仰する者すべてが特定の寺だけでなく個人個人が宗門の仲間であるという意味で門徒と呼んでいます。

門徒と信徒の使い分けをすることもある

『お寺さんは檀家数どれくらいですか』とご門徒さんから尋ねられることがあります。

しかし浄土真宗のお坊さんも正確には答えられないのです。隠しているのではなく。

なぜならお寺は門徒と信徒によって支えられているからです。この信徒の数が不明なので、お坊さんも正確な数字はわからないのです。

どういうことかと言いますと、浄土真宗寺院でも江戸時代の檀家制度のなごりで、寺に門徒の記録をとった法名台帳や過去帳があります。家が途絶えたり別の土地に移ったりしていなければこれがそのまま門徒数として数えることができます。

しかし信徒というのは特定の寺だけでなく、複数の寺にお参りし僧侶とも交流があります。

お寺(檀那寺)と門徒と信徒との関係のイメージ図

お寺と門徒・信徒との関係イメージ

例えばですが私が住んでいる地域では、法事や葬儀の際、門徒として普段付き合いのある寺から僧侶を案内します。一方で信徒として毎月の祥月命日や盆参り・正月参りなどでは別のお寺のお坊さんを招くこともあります。

また法事や葬儀でも施主が寺を案内するだけでなく、施主の妻や親族が自分の寺から僧侶を招くことがあります。

ですのでお寺がお参りする家でも、門徒のこともあれば信徒のこともあり、さらに家の中でも一か寺だけのお付き合いではなく複数のお寺とつながっていることがあります。門徒だけによって特定のお寺があるのではなく信徒とのつながりもあり、複雑に関係していて正確な数は不明なのです。(最近では数が減りましたが、私も真言宗など宗派の違ったお坊さんと葬儀をしたことがあります。)


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さいごに。お寺と家は支えあう関係。繋がりが大切

現代は核家族が進み、家単位のお付き合いであった門徒(檀家)が減っています。すると経済面から特定の寺を支えることが難しくなり、廃寺となる寺も増えつつあります。

檀家という言葉は、檀那となる家のことでもあります。檀那とはダーナのことで、与えること、つまり布施をする意味になります。檀家(檀那となる家)という言葉があれば檀那となる寺(檀那寺)という言葉もあります。

実はお寺同士のつながりのことを檀那寺の関係ということもあります。寺同士が檀那でありお互いにお参りをして、また困難があった場合は何らかのサポートをする関係です。檀那寺の関係とは2つのお寺同士ではなく、複数のお寺同士でつながっていたりします。

それは門徒・信徒と寺との関係とよく似ています。

どこか特定の寺や宗派だけとつながるのではなく、共に支えあって生きており、同じく仏法にであっている者同士、そのご縁を大切にし支えあいます。

家は今までの関係からただ檀家として一方的に金銭を渡し寺での仏教行事に参加しないのではなく、できればともに仏法に出会えた仲間、そして同じ共同体で生活している仲間として、門徒・信徒の関係で、お寺にも参り、法話にも参加し仏法をいただいてほしいです。そうでなければ檀那寺である寺は皆様にダーナ(布施)ができなくなってしまいます。


余計な一言かもしれませんが、信心・信仰がないから檀家や門徒にならないと主張するのはお坊さんからすれは見当違いです。なぜなら最初から信心・信仰のある人なんていないからです。では何が大切なのかと言えば、仏法にであうことです。寺院が「寺離れ」と寺の経営問題を言うのは、その仏法に出会う場である寺が残り人々が仏法に触れることができる場を残したいからです。信仰信心の有無は檀家や門徒には関係ありません。つながっていく中で少しずつ仏法に出あってほしいのです。ですので何が言いたいかというとできるだけ寺に参り法話を聞いてほしい。

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