
香川県にある郡家別院の仏教青年会より、法要に配布するコラム記事の寄稿を依頼されました。
私が書いた文章を紹介します。
つながり
先日、アメリカの女優が事故を起こし脳死の判定を受け、その彼女の臓器は必要とする他の人に提供されたとのニュースが流れました。
脳死は心肺の停止といった医学的な死亡ではないので、残された家族はとても辛く苦しい思いだったでしょう。ですが彼女は生前から臓器提供を希望されていたようで、臓器を提供された人は彼女の思いを受けつぐことによって、いのちがつながったと言えるのではないでしょうか。
私たちは日常の忙しさにかまけて、いのちのつながり、他の人との支えあいによって、生かされていることを忘れがちになります。
「すべてのものはつながりあって生きている」
仏教ではこのことを「因果の道理・縁」で教えてくださっています。
このつながりあういのちは、人間をはじめとした動物だけでなく、植物のいのちにもあてはまりますよね。
植物も親から受けつがれた種が、地面に落ち、太陽のあたたかさ、光、空気といった様々な働きによって、大きく育っていき、また新たな世代へといのちを受けついでいきます。もっといえば、植物は虫といった他の生き物によって、受粉を助けてもらったり、果実をより遠くに運んでもらったりと、自分たちのいのちをつなぐことができます。
人間にしろ動物にしろ植物にしろ、あらゆるいのちが、縁によって結ばれてともに生かされていく世界が成り立っています。
最近の出来事で言えば、新型コロナウイルスの感染拡大により、様々な交わりが妨げられるようになったのは、皆さまにとっても身近な経験となったのではないでしょうか。
人と会うのを控えるといった物理的なことだけでなく、いつ自分が感染するのか重症化するのかといった精神的な不安感・距離感・孤独感を抱えたのではないでしょうか。
人間だけでなくあらゆる生き物たちは、縦にも横にもつながり、見えないながらも、共に支えあい生きています。
浄土真宗は仏さまやご先祖を敬う仏事法事を通して、この私につながっている様々ないのちの有りがたさ・おかげさまに気がついていき、「自分が・我が・俺が」と自分の物差しでものの価値を決めるのではない、自己中心的なものの見方を改めていくように働きかけてくれます。
コロナ禍も3年目となり、少しずつこれまでの日常に戻りつつあるように思われます。
日常の忙しさが戻るにつれ、共につながって生きている事実を忘れていくやもしれません。そうならないように、お参りを続け、仏さまの教えに出あっていくことが大切なのではないかと思うところです。
合掌
円龍寺 衆徒 金倉克啓
補足
お坊さんは仏教の話をしますが、説明ばかりになると、読む人はしんどく伝わりません。
円龍寺ラジオ150回目では、「お坊さんが文章を書くときに気をつけること」をお話しました。
浄土真宗では来年の令和5年(2023年)が、宗祖親鸞聖人の誕生850年の節目となります。
浄土真宗の各派でそれぞれに慶讃法要が営まれますが、私が属する真宗興正派では「今こそお念仏―つなごうふれあいの輪」がテーマとなっています。
真宗興正派では、10年前の750回忌法要でも「いのち・つながり・よろこび」をテーマとしました。
今を生きる私たちは、様々ないのちが触れあうつながりなかで、共に生きています。
コロナ禍の世の中、来年の法要を迎えるにあたって、今いちど仏教の・仏様のお言葉の「つながり」に耳を傾けていくように書きました。
↓真宗興正派の慶讃法要案内
「脳死は人の死」の考えが法律で定まって、日本では25年ほどたちます。
脳死は脳の機能が失われたことによる死のことです。一方で、医学的な死ではありません。
医学的な死は次の3つが該当しなければなりません。
- 心臓の拍動がとまる
- 呼吸がとまる
- 瞳孔(黒目)の散大
この3つが該当し、医者が判断して死と扱われます。
「脳死は人の死」の考えは、臓器提供を可能とするためのもので、残された家族からすれば悩みの残る思いかもしれません。
円龍寺23代住職の金倉崇文は、真宗興正派の初代霊山本廟長でした。
2014年から2016年にかけて書かれた、毎月刊行『求道(ぐどう)』の仏教エッセイを、次のページにて紹介しました。