金倉崇文は2014年春より2016年春まで、本山興正寺の初代霊山本廟長となりました(真宗興正派興正寺とは)。霊山本廟は浄土真宗宗祖親鸞聖人の遺骨を納める廟所として、真宗興正派興正寺ご歴代住職とともに、肉親のご遺骨をその傍らにと願われ尊崇護持されてきた場所です。
霊山本廟の『求道(ぐどう)』は、本廟長や本廟に勤める僧侶らが感じたことを毎月刊行し、参拝者に配布しています。
金倉崇文に許可を頂き、興正寺初代本廟長のおよそ3年間にわたる、毎月の求道を紹介していきます。なお各月の副題は私が勝手につけています。
「お暇」2016年4月
京の雅を背景に桜を愛でる楽しみは、東山霊山に住み込む者だけの特権です。朝な朝なに小鳥がさえずり、夕な夕なの陽炎(かげろう)に心が惑います。そんな三度目の春を迎えて、とうとう皆様にお暇を告げる時がまいりました。思えば霊山本廟で過ごした二年間、うたかたの夢のような時間でした。
そもそも、私と霊山本廟とのかかわりは、今から三十一年前の春四月十日・十一日、桜花が仏さまを讃えるように散華する中、当時の霊山別院の浄華堂と庫裡の落成法要が厳修され、その手伝いに駆り出されたのが始まりでした。まさに使い走りをするかたわら、いつか許されるものならこの場所で暮らしてみたいという思いを、口にすると壊れてしまう夢のような憧れとして長く心にとどめていました。ところが、そんな願いが届いたのでしょうか、霊山別院が本山興正寺の飛び地境内地として、霊山本廟として生まれ変わるのを機に、留守職の仕事を仰せつかったのです。
私自身、人生の黄昏の境地に至った時、親鸞聖人の御許に住したい思いにも駆られてのことでした。それは、人生の最期に住みそして終えたい場所であり、死後に落ち着く所として願った理由でもあったのです。終の住処(ついのすみか)の在り処(ありか)を探し求めることは、いつ人生の幕を下ろすのかの時間が問題なのではなく、何によって生き、何によって死んでいけるのかを問いたずねていく旅なのです。
ひと頃、『終活』なる言葉も流行り、個々の人生ノートなどにも目が向けられました。しかし残念なことに多くの人が、自分の人生の後片付けには注意を払うのですが、肝心である筈の、人として生まれてきた目的地を尋ねていくことを怠っています。なぜなら、自分が向かう人生の旅の終着地を求めてこその『終活』であり、後に残り後に続く者への置き土産であり、いただいた人生への返礼でもあるのです。
それにしても、この霊山本廟を去る日が近づいてくれば来るほど、逆にこの私をこの地に呼び給いめぐり遇わせた願いを感じてしまいます。それは途方もない時間と圧力と熱によって生みだされた宝石のように、偶々(たまたま)でありながらもそれでいて、偶然の産物などではない輝石という名の願いといただけるのです。永劫よりこの方、生きることも死すことも、いのちが生み出す悲しみ寂しささえも、仏さまからの目覚めの働きであり、絶え間なく呼びかけられた願いそのものなのです。
一年目の絵画シリーズに続き音楽シリーズと、『求道』の表紙の文章に趣味がてら添えさせていただいた紹介も、今月号にてお別れとなりました。『求道』の内容については、できるだけ身の回りの話題をと心がけてまいりましたが、実際振り返って読み直しますと、キルケゴールがレギーネだけには真意が届いてほしいと願った小説のように、ただ一人あなたのために書きあげた文章であり、波高き人生へのオマージュとして捧げたその思いへの気づきを願うばかりです。
それでは最後の文章に添える曲は、ミルト・ジャクソンの『I Remember Clifford』です。二十六歳の若さで突然亡くなった不世出のトランぺッター、クリフォード・ブラウンを偲ぶジャズの名曲です。ミルト・ジャクソンの硬質のビブラフォンが、私の心の琴線に触れて止まないのです。
短い間でしたが、一緒にお参りさせていただき、お育ていただきましたこと、そして『求道』の拙い文章にお付き合い頂き、心より御礼申し上げます。合掌
西讃教区第九組 丸亀市金倉町 円龍寺住職
前本廟長 金倉 崇文
「ひと筋の道」2016年3月
春三月、お彼岸月に入りますと、霊山本廟から眺める東山連峰の稜線にも、やわらかで鐘霞むような穏やかな大気が漂います。少しばかり耳を澄ませてみれば、雲雀(ひばり)の鳴き声でしょうか、都会の片隅でありながら、田舎の風景かと錯覚さえいたします。それにしても、いつの頃からかはっきりしませんが、ここ霊山本廟にも、イノシシ、シカ、サルなどの野生動物が出没しかけ、施設等が被害に遭わぬようにと願っていますが、なにせ人間よりも足繁くお参りしてくれるので、見かけるたびに声をかけても、戌(いぬ)年生まれの私ではお友達にはなってくれないようです。
そんな東山という山に籠ってまる二年、ひと抱え以上もある大木に囲まれながら、遠く子供の頃のことを思い出します。私の生まれ育った寺は瀬戸内の臨海地域にありますが、反対に母の実家は讃岐山脈の山懐にいだかれた山村で、生活の糧を厳しい環境の耕作地に求めながら、併せて山々からの恵みに負うところが大きかったと思います。祖父に連れられて山に分け入ると、「この辺りの木々は曽祖父が百年後の崇文のために植えてくれた所」とか、切り株などを示しては「これは崇文のお母さんの嫁入り道具のために切った跡」とか、松茸狩りに行くと「ここで採れた松茸が東京の大学の学費になった」などと、まさに受け継ぎ守り通した山の中に、命の原点は遠い繋がりの中にあることを、祖父は見事な年輪の切り株などを指し示しながら教えてくれたのだと思います。
今にして思えば、私にとって、先代住職の厳しさに対し、その慰めを求めるように慕っていた祖父は、一方で生活の中に念仏が溢れた一途な人でした。一人娘が真宗寺院に嫁ぎ、お寺とご縁が結べることを殊のほか喜び、亡くなるまで聞法にいそしんだのです。そんな祖父が中学生だった私に問うてきた言葉を、今でも鮮明に覚えています。
「崇文は何かを信じているのか」。唐突にも思える問いかけの中に、私の心を見透かしたような重い意図を感じてつい、寺の子として育ちながら「信じようとするものはあるけれども、いろいろ教えはあるんじゃないの」と、私が答えにならぬ返事で取りつくろうのを、祖父が寂しい面持ちで指し示したのが、部屋に掛けていた金子大栄師の書かれた一枚の色紙であり、その中の文言、親鸞聖人のご和讃の一節である『念仏成仏是真宗』でした。
ひと言のみ「これだけ、ただこれだけなんだよ」。
多くを語らぬかわりに、身をもって示しお浄土に帰られた祖父は、きっと私の歩む道が、進むべき道を迷い選ぶことではなく、私のためにこそ用意されたひと筋の道であり、すでに仏さまから願われた道を往きぬくことであり、願生道すなわち念仏成仏にほかならぬことを、今の今に至るまで呼びかけて下さっているのです。
目を閉じて浮かぶ思い出とともに、音楽もまたその場面に寄り添うように語りかけてくれます。マイルス・デイビスの『Blue in Green』は、歴史的名盤中の一曲であり、言葉など必要としない音の空間には、聴く者に自らの存在を問いかけるような揺さぶりを感じてしまいます。マイルスのミュートが、静かな湖面に波を立たせることをためらうように、そしてビル・エバンスのピアノが、心の中にひそやかに仕舞っている人間の悲しみと喜びを奏でています。
合掌
「心の窓」2016年2月
日ごと、後夜とも晨朝とも区別がつかない寅の刻午前四時五十分、枕元で清水寺の大鐘を目覚まし代わりに聞きながら清々しい朝を迎える。そんな爽やかな一日の始まりも、さすがに南国育ちの私には、厳寒期だけは布団から抜け出すのに思い切りが必要になります。なにしろ睦月春二月とは申せ、手水鉢の水は手を切るほど冷たく、本廟の華立ては薄氷が張り、つくづくこの東山の霊山本廟は山であることを実感いたします。
そして白い息を吐きながら、まだ日の出までには時間のある早朝の階段を上りきり本堂に着くころには、漸く寝ぼけた頭にも生気が蘇ります。毎朝お経をあげる中で時としてこみ上げてくるのは、お勤めを僧侶としての責務からするのであれば義務感に陥ってしまい、逆に日常化してしまうと惰性に流されていることになり、どうしてもこだわりのない、無義のお勤めができないことに、もどかしい如何ともしがたい苦しみさえ感じてしまいます。私としては素直に、お礼のお勤めをすることが報恩行なのでしょう。
予て言われていたことに、心静かにご仏前に座り仏さまにお参りすることは、心の窓を開けるようなことだと。一般的に窓の効用というのは、空気を入れ替えるためであり、光を取り入れるためにあります。つまり心の窓に当てはめると、澱んだ心を新鮮で清浄な空気に入れ替えるためには、心の窓を開け放つことが必要であり、また悩み多き心に光を射し込ますためには、採光のための大きな窓が求められます。考えてみれば、私たちの心の在り処はいつの間にか、住人のいない家のように閉め切られた、まさに朽ちるに任せた廃屋の主になっているのです。できれば急ぎ光に満ちた風通しの良い、心の窓を持ちたいものです。
さてこの時期、木漏れ日にも似た淡い微かな光に早春の息吹を感じ、その陽だまりを自然と追い求めながら、光の中には身も心も解きほぐすような温かさがあることに気づかされます。仏教の世界では、光を光明といただき、我が心の無明の闇を破する智慧をあらわし、それは障りのない光明無量であり、その徳を『正信偈』では十二光をもって示されています。しかしともすれば、私たちは光明の世界を頭の中で抽象的にいただいて仕舞いがちです。私たちは、今を生きています。生きている証は、心臓が動いているからではなく、脳が働いているからではなく、身体にそして心に温もりを感じているからこそ生きているのです。私たちを照らし続ける光明は、仏さまの願いが慈悲の涙の温もりとなって届けて下さるから、その温かさに包まれた内観に、私たちは南無の世界と頭が下がるのです。
振り返えれば、今日より昔の方が、寒さが厳しく感じられたものです。手にはあかぎれやら霜焼けで、一杯のお湯がどんなに有り難かったか。そんな中、いつも母は私の手を包み込むように擦ってくれていました。皆が貧しき時代の、出来得る限りの優しさでした。智慧の光明であれ、無量のいのちであれ、母の手の温もりは、仏さまの願いの温かさです。決して無機質ではない、光に温かさを感じた時、光明は全てのいのちへと照らし続けてくれています。
春ももう少しです。音楽でも聴いて心を温めませんか。ハンプトン・ホーズの『All the things you are』。春を待ちわびる冬に、愛する人を想う歌「あなたが わたしのすべて」と、歌詞の如く言ってみたいし、たった一人だけでいいのだから云われてみたい。無理からぬ注文はさておき、せめてハンプトン・ホーズの小粋なピアノで慰めてもらいましょうか。
合掌
「音声」2016年1月
謹んで新春のお慶びを申し上げます。
参道に描かれた、見事なまでの紅葉の絨毯の上を、歩くことさえためらいたくなるほど、自然の佇まいの美しさに心奪われ、そんな日々も気が付けば、露往霜来の寒き木枯らしと共に新しい年を迎える事となりました。
思えば毎年のことながら、生まれてこのかた寺以外の場所で、年末年始を過ごしたことの無い私にとって、一度くらいは炬燵(こたつ)に潜り込み、みかんでも頬張りながら除夜の鐘を遠くで聞き、寝正月を決め込む。かつてそんなお正月に憧れたものですが、むしろ一年中毎日がお正月と変わらぬような生活をして、さほど喜びさえ感じないことに後ろめたささえ覚えます。
そんな中、寺の大晦日に欠かせぬものに除夜の鐘があります。田舎の寺では思いもしなかったのですが、都会の寺では、近所に気遣いながら梵鐘を撞く所も多いと聞きます。幸いなことにここ霊山本廟では、遠慮なくご近所の方と大鐘を撞いていますが、いつまで続けられるのか不安に思うこともあります。もちろん除夜の鐘だけが梵鐘の意味ではありません。それは田舎の自坊ですでに感じていたことなのですが、単に法座の行事鐘などの用途だけではなく、梵鐘に込められた願いが普く響きわたっていない思いがあるからなのです。
たとえば寺の象徴たる建物には、本堂があり、三門がありそして鐘楼などがあり、それぞれに大切な意味があるわけですが、とりわけ大鐘を吊る鐘楼を仰ぐたびに、それが寺の風景の一部と化していることへの寂しさを感じます。単なる大きな音が出る鐘ではなく、平家物語の冒頭にもあるように、その響きの中には諸行無常を知らしめる鼓動、そして願いがあるわけです。広義に頂くならば、寺の梵鐘や喚鐘だけでなく、仏前のお鈴さえ聴く心ひとつで、亡き人からの願いに換わり、仏さまから届けられた本願招喚への響きに聴こえてくるのです。
音声といえば、年末年始を本廟に張り付いている私としては、田舎に残している老いた母のことが気にかかります。せめて声だけでもと電話をかけると、病床の母の枕元で会話ができる便利な時代です。母の開口一番「声が聞きたかった、元気にしているかな」手紙の時代ならいざ知らず、電話の一本かけられていない忘恩を心で詫びつつ、ただただ息子の身を案じてくれる母は、ひと筋にその願いの呼びかけに私が気づき、その声を待っていて下さっています。そして、いつの日か必ず出会える処「ただいま帰りました」「お帰りなさい」と。
心まで凍えそうな寒い夜には、ソニー・クラークの『Deep Night』の溌剌としたピアノに癒されたいものです。古き良き時代を彷彿とさせるスイング感、ジャケットの中の颯爽と歩く姿に、何かしら前を向いて一歩を踏み出す力を示してくれているようです。
合掌
「時」2015年12月
首筋に朝夕の寒気を感じ、思わず身震いをしてしまいそうになる頃、今日も手許に届けられた喪中の葉書に目を通しながら、今までは単なる儀礼にしか過ぎぬと、気にも留めず一瞥(いちべつ)してきたものですが、とうとう私にも目に飛び込んできた亡き人に、思いをいたす年齢になりました。そういえば、父親がいつも新聞のお悔やみ欄に、真っ先に目が行ってしまうと言っていたことも思い出します。
考えてみれば僅か戦後七十年ほどで、平均寿命が四十歳近くも伸びてきた私たちにとって、長寿がもたらしてくれた恩恵は、人生という旅をより彩り深いものにしてくれた筈です。しかしながら、厳然たる私の事実として、受け入れざるを得ない生老病死の中で、長生きすることも残された者への寂しい、そして冷厳なる現実を突きつけてきます。その所為でしょうか夫婦の間でいえば、偕老同穴の望みの中で、いくら喧嘩していても居てくれるだけでいいとか、一分一秒でもいいから先に死にたいなどと、往く者と残されし者の悲哀を、泣き笑いともまた贅沢とも思える中で語り合うものです。
一方で時間という余暇が生み出した人生において、本来なら自己と向き合わねばならない刹那を、私たちは見事なまでに享楽へと向かうことによって、逃避と慰めに費やしてしまい、まさに当てどのない彷徨い人になってしまいました。少なくとも今まで見送る側で過ごしてきた我々にとっては、今まで抱いてきた死生観も人生観も、自身の余命の中でこれから歩む我が暗夜の灯りとして、仏さまに教えを頂かねばなりません。
そんな月日を感じる先月下旬、本山報恩講並びに霊山本廟の報恩講が厳修されましたが、毎年の例時として勤めるこの法要には、そこに集い、そこに人生のページを重ねてきた者にとって、親鸞聖人への敬慕だけではなく、追懐の涙を流す思い出の法要でもあります。私にとって親鸞聖人のご命日である二十八日は、特別な日として決して忘れえぬ日でもあります。
私の自坊では、調べがつかぬくらい昔から、十二月の押し迫ったひと月遅れの御正忌報恩講を勤めていました。私の記憶では、その二十八日までの三日間には、人が入れ替わり立ち替わり右往左往され、子供の頃には、何時寝て何時起きていた分からないほどごった返したものです。そんな忙しさに取り紛れ、父である住職を捕まえるのさえひと苦労しながら、最後の喧騒が終わった二十八日の晩、お内仏にてお聖人のお勤めを家族で勤めるのでした。
毎年同じ光景が続く中、いつもお内仏で先参りする父がこの十二月二十八日のお勤めだけは、後ろから見ると何かしら肩が震えているように感じてなりません。無事終えたお疲れやら安堵感ばかりと思っていましたが、ある年私のほうに振り返り、寺を継ぐのなら過去帳に目を通しなさいと教えられました。寺の過去帳というものは、阿弥陀様と並び火急の事態の持ち出し物として、小さいころから住職に叩き込まれてきたものです。
忘れもしない、昭和十八年の十二月二十八日付けの過去帳の記述には、僅かその二年後に亡くなった私の祖父二十一世住職の書き込みの法名がありました。達筆であった祖父が感情を堪えきれず墨が滲んだ法名には、父の姉であり祖父の第四女である娘の名があり、思い出と共に涙を綴った文章がしたためられていました。私からすると伯母に当たる娘は、女学校の卒業を病床で迎え、二十歳で亡くなったのです。寺の報恩講の最中に亡くなった娘の訃音を参詣者には知らせず、大切な報恩講のお勤めが終わるまで、祖父は我が悲しみを伏せ法要を勤めあげ、その晩に家族中で今生のお別れをしたのでした。涙で汚れた過去帳の記述を全文紹介するには紙面が足りませんが、祖父が記述の最後に娘に宛てた別れの句だけを紹介します。
ほほえみに輝く命 涙まで曇らぬ命 讃えまつらん 千鶴子 安かれ
祖父の悲しみが、父にとっても特別な一日だったことを、時を超え涙を添えて私に届けて下さいました。
過ぎ去りし年月を感じながら、年の暮には聴いておきたいアルバムに、ジョン・コルトレーンの『バラード』があります。針を落とした瞬間心に響く切なさに、どれだけ多くの寂しき心が癒され続けてきたのでしょう。全曲時をも忘れますが、中でも「I Wish I Knew」に香るブルースは、今の私の心を受け止めてくれるようです。
合掌
「涙」2015年11月
毎日本廟で暮らしていながら今更なにをと思われるかもしれませんが、この霊山本廟という場所は何と贅沢な空間なのでしょうか。ふと法務のかたわら手を休めてまわりを見渡してみると、秋陽に照らされた錦絵のような紅葉が眼前を埋め尽くし、あたかも沈香の香りが漂うが如く、心をも清浄な気持ちにさせてくれます。これで一日の終わりに般若湯の差し入れでもあれば言うことなし。どこからか叱られそうなつぶやきですが、正直ここが終の棲家であればと密やかに願うほどですし、せめてお骨だけでもと思うに足る場所だと感じます。
さてこの時期気づけば日足が瞬く間に短くなり、秋の日は釣瓶落としと、遊びに夢中になる姿に対し戒めにも似た言葉を、親から掛けられたことを思い出します。振り返れば、父親が亡くなった当初、どんなに気難しい親であっても、良き思い出しか浮かばず、これが肉親の有り難さなのかと首肯したものです。現在、私も人生の黄昏を意識するようになると、なぜかしら親の笑顔より涙の事が多く思い出されます。我が子の流す涙ほど親にとっての悲しみはありませんが、また逆に親がみせた涙も時間が経てば経つほどその悲しみが心を打ちます。今にして思えばおそらく子供の目からは、親の涙の意味が十分理解できずにいたものが、歳を重ねた中で漸く解るものだからかもしれません。
なるほど涙とは不思議なものです。うれし涙、悲しい涙に限らず涙に纏わる表現は枚挙にいとまがありません。なかでも別れの涙など味わいたくないものですが、出会いがあれば必ず別れがあります。また、歳と共に涙もろくなるとか言われますが、一方で涙を忘れたように無感動になっている自分に驚くこともあります。昔、寺の庫裡の屋根瓦の葺き替え中に、父が涙を流している姿を見て、雨露を凌いでくれた瓦にさえお礼ができるものなのかと、自分の感恵の鈍感さに恥ずかしくなったこともありました。
思い出の中に生き続ける涙。人には感情があるために落涙するのですが、およそ仏教の諦観とはかけ離れた、人間的な凡情の涙であればあるほど、そこには涙の訳を問い訊ねた頷きの世界があり、望外である突然の気づきの涙の中にこそ、我ために届けられた願いといただける、随喜の涙があるに違いありません。
仏さまの本願である、救われ難き人こそ救わずにはおれないという悲願は、悲しいまでに私にかけられた仏さまの涙です。言葉じゃない涙でもって教えてくれた人は、ひと足先に仏の世界に帰り、ひたすらにこのしぶとい私が気づくまで、休止することなく願い続けてくれています。私にとっては情けないくらい、ただただ暗涙に咽びながら念仏申していくばかりです。
つい先日、ある女性との会話の中で、音楽の話に花が咲きました。遠く千葉県から足繁くお参り下さる方ですが、ご本人は寂しい思いをしながらもバイオリンを弾くことによって、潤いのある生活が過ごせていると打ち明けてくれました。何かに癒しを求められる人は幸せです。音楽の素養など怪しい私ですが、きっと届けて下さる何かがあるのかもしれません。そんな思いの中、ケニー・バレルの『Delilah』は、「サムソンとデリラ」という古いアメリカ映画の楽曲ですが、ジャズにかかるとバレルの哀愁を帯びたギター、キャンディドのコンガとのインタープレイを通して、寓話の世界に誘ってくれるようです。
合掌
「目には見えずとも」2015年10月
秋お彼岸の賑わいもいざ一段落して気づいてみると、もう今年も残すところ三ヶ月をきるようになりました。真宗寺院で育った者にとっては、この時期少しばかりの息抜きも束の間、秋風が吹きかけると報恩講のことに思いが至ります。かつて実りの秋、猫の手も借りたい農繁期には、共同炊事のために寺に鍋釜を持ち寄り、皆が助け合い支え合いながら日々の暮らしをしていた時代。籾(もみ)すりを待ちかねながらハゼに吊られた稲が、短い日を惜しむように夕日に染まっていく。そんな収穫への喜びに合わせるように秋色が濃くなる中で、親鸞聖人の御正忌である報恩講がご門徒の家々で勤められてきたのでした。まさに自然の中に身を委ね人生という年輪を重ねることで、恵みと報恩という宗教的な敬虔さも育まれてきたのだと思います。
思えば、目に見えぬものの中に護られていると頷ける内観は、時に寂しさを醸し出し、時に悦びを齎(もたら)してくれます。そんな見えざる世界を金子みすゞは『星とたんぽぽ』の中で、「見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ」と、昼には見えぬ星でも我が心を暗喩するように夜には輝き、淡い綿のような華奢なたんぽぽも、目には懸からずとも生命の根を大地に下ろす様を詠い上げています。
この心の目を通して気づいた世界には、光があり風があります。決して目には見えずとも、その光は心に差し込む灯りとして、そしてその風は心の琴線を震わせ共鳴する音声(おんじょう)として頂くことができるのです。親鸞聖人の『浄土和讃』にも、浄土の世界に満ちる光を、そして吹き渡る風をもって仏の世界を讃嘆されています。「七宝樹林くににみつ 光曜たがいにかがやけり・・・」、「清風宝樹をふくときは いつつの音声いだしつつ・・・」と詠い、浄土の徳を光と風で表わしています。この光と風こそ仏さまの本願のはたらきなのです。
いついつ、どこまでも続き、そして己が心に届けられていた願い。それは誰も目にすることができず、誰も言葉だけでは語り尽くせない世界。金子みすゞを高く評価した西條八十の『風』という詩には、「誰が風を見たのでしょう 僕もあなたも見やしない けれど木の葉をふるわせて 風が通りぬけてゆく・・・」があります。英語の原詩の邦訳ですが、西條八十には他にも風に纏わる詩があるところから、目に見えぬ風に特別な意味を認めていたのでしょう。
ひところ流行った『千の風になって』は、星や鳥や風などの好ましい対象物を擬人化することによって亡き人を偲んでいますが、金子みすゞなどの目線の先には、自己の狭小な認識ではなく、あくまでもそしてひたむきなまでに、目の届かぬ物や生命などへのまなざしであり、私たちのはからいを超えた世界から、私への目覚めを促す自然の働きとして、木の葉をふるわす風を感じたところに、自力の絶えた世界への頷きがあったのに相違ありません。
今日もまた、肉親の遺骨を携えて、親鸞聖人を慕い集う参詣者と一緒にお参りをして、本廟を取り囲むように震える樹木への風を感じながら、樹静かならんと欲すれども風止まず「風樹の嘆」のごとく亡き人を偲びつつ合掌しています。 秋の夜長に寂しき心を癒してくれる音楽は、今の私にとって大切な友です。カーティス・フラーの「Five Spot After Dark」は、小粋な洗練されたモダンジャズの一枚ともいうべき作品で、ついつい手を伸ばしてしまう愛聴盤であり、風を全身で受けとめようとする人物描写のジャケットも秀逸だと思います。
合掌
「心で聞く」2015年9月
今夏の暑さは、手すりに手を触れると火傷しそうなくらい、まさに灼熱と呼ぶにふさわしいものでしたが、お盆を過ぎ九月に入ると漸く明け方の冷気が清々しく感じられ、本廟での毎朝のお勤めの声も少しばかり大きくなったような気がします。それでも身体への蓄積されたダメージは、むしろ秋口になると急に現れ、寄る年波には勝てないものだとつくづく感じてしまいます。
今にして思えば、香川県の自坊を後にして霊山本廟に出てきた当初、良い所に住めるのですねと、羨望の如く見送られてきましたが、何何、京の都といえば聞こえはいいのですが、手元不如意のうえに夜の街には縁遠く、尚且つ本廟に缶詰とくれば、霊山のきつい階段と長い坂での否応なしの運動、そしてお参りの皆様とお会いできるのが、仏さまのお心遣いなのでしょう。恐れ入ります。昔から、住めば都と言われたりもしますが、既に都に住む私には、そんな慰めも通用する筈もなく、そろそろ讃岐の方へ遠流に処せられ、都落ちする日が来ないものでしょうか……。
さて、昭和初期に詠まれた句の中に、「降る雪や 明治は遠くになりにけり」という有名な句があります。いつの世も、年を渉りて昔を追懐するのは人の常ですが、その手がかりとなるものは、人との出会いであり別れであり、変化を認めざるを得ない内面の葛藤にあります。それは、単に年数が経ったがゆえに思うことではなく、変わりゆく寂しさに踏み留まることができずに涙することを意味するのでしょう。
悲しいかな、歴史における人の一生など点に過ぎず、流れゆく変化に抗いながらも、私たちは伝承や書物、生きざまや死にざまをもって先人たちの心を受け頂いてきました。仏法もそんな生命のリレーと、はからいを超えた願いによってこの私に届けられています。
かつて、文盲の人に出遇ったことを思い出します。今でこそ手帳の年齢早見表から明治時代は消えてしまいましたが、私の生まれた時には、まだ自分の名前をひらがなで書きかねる明治生まれの人がいました。厳しい明治時代であったと想像に難くないのですが、その人は字が読めないにもかかわらず、お経も御勧章も一緒に諳(そらん)じてお勤めができ、子供心にも妙に感じたことだけは印象に残っています。
考えてみれば、人は耳を澄ます時不思議と目を閉じます。それは視覚が理解の妨げになるからなのでしょうか。おそらく形あるものに執着してしまうことを避けるために、本能的に身に着けているのかもしれません。私たちは恐ろしいことに、字という形が読めているのに実際は読めていないのです。言い換えれば、お経は字を読むことではなく、その心を頂いていくことが大事であることを。そして、心で聞いていくその扉を開ける鍵は、一字一字に注ぎ込められた仏さまの本願を聞き開いていく姿勢に他ならぬことを。それは、文盲でありながら念仏が素直に届けられている人のことを思い出す度に、私こそ未だに一文不知であると教えてくれているようです。 いつの間にか、寺務所の最後の施錠がし難くなるほど、暗さを感じるようになりました。もう秋のお彼岸もすぐのことです。虫の音を聴きつつ、今日もやはり針を落として眠りにつきたい気分です。MJQの『Softly, as in a Morning Sunrise(朝日のごとくさわやかに)』は、『Django(ジャンゴ)』と並びいまさら何の説明もいらない、モダンジャズ クラッシクスともいうべき名演であり、きっとあなたの心を癒してくれるでしょう。
合掌
「無為」2015年8月
暑中お見舞い申し上げます。
この頃、暑さと歳のせいでしょうか、当初気持ち良くめくれていたカレンダーも、妙に八月頃にもなると抵抗を見せ始め、破りにくくなった残りを手で押さえつつ、物惜しむように寂しくめくるのでした。考えてみればそれは一分一秒、ひと歩みごとに人生の終わりに向かっている、私事として受容しなければならないのでしょうが、実際は現実を覆蔽(ふへい)することによって、苦しみから逃避しようとしてしまいます。換言すれば、時間に苦しみの源泉があるのではなく、生身の人間であるがゆえに、全ては諸行無常とする仏教の道理を正見できず、人は時間というものに捕縛され翻弄されながら、生きていかざるをえないからなのでしょう。
思えば年月というものは、一瞬たりとも立ち止まらない戻れない刹那の残酷さをもちながらも、一方で悲傷をも抱擁してくれるような優しさと癒しを、そして切なく甘美な思い出へと昇華してくれる寛容さも内包していると感じます。涙で別れを告げた日、この身が引き裂かれるような思いで見送ったあの日、我儘(わがまま)ゆえに周囲を悲しませた日々。忘れえぬ数えきれない出来事が、傷ついたモノクロフィルムを心の中に投影するように、儚い思い出としてよみがえります。
燃えつきた日が陰りだす夕刻、微かな波線のような涼気を、遊び疲れ火照った体に受け、夕餉(ゆうげ)の団らんが帰り道を急がせる、そんな子供の頃のお盆の情景を思い出します。昔は家々が戸を開け放ち、自然の風のみを納涼としていた時代は、外から家の中が素通しになり、仏壇の前にほのかに灯る吊り灯籠を見かける度に、最近に誰かが亡くなった家だなと感傷を覚えたものです。そのような日本の原風景を懐かしみながら、かつてひとりの男の人から、子供の頃の思い出話を聞かされたことを思い出します。
近所に我が家のように出入りをしていた家があり、その家の若い人が戦地に駆り出されたのです。出征の日、駅のホームにて大勢の人に歓喜で見送られる中、老いた両親は息子の晴れがましい姿に、これ以上ないほどの笑顔で見送っていたそうです。その日の夕方、いつものようにその家に遊びに行ったところ、夫婦が肩寄せ合うように泣いている姿に驚いたそうです。先ほどまで、誇らしげに振舞っていた夫婦が二人きりになった時、今度は打って変わって嘆き悲しんでいる姿に、幼い子供の心には、その理由がわからなかったと、遠くを見つめるように語ってくれたのでした。
戦争中、どこにでもありえた風景の中に、人間の悲愴なドラマが繰り返されてきたのです。これは戦時という特別な状況だけではなく、いつの世も変わらぬ、子を思う親の悲しいまでの願いなのです。戦地へと旅立ち、そして今また親元を巣立っていく子に、親の願いは届いているのでしょうか。思い出す度に私は、涙をこらえることができません。
科学や物理の世界を超えた所に私たちは生きています。時間であれ、空間であれ、数量で計れぬ思いの中で生きています。人智を超えた、永劫よりこの方、願われ続けて生きています。厳しい別れの中にこそ、届けて下さる願力があり、無為の念仏があります。この世とのお暇をさせていただく時には、私の帰りを待ちわびてくれている世界があります。申し訳ない気持ちで一杯です。
少しずつ暗くなるのが早くなり、霊山が夜のとばりに包まれるころ、人恋しくて急に聴きたくなった曲。アート・ファーマーの『I’m a fool to want you(恋は愚かというけれど)』のトランペットは、今の私の心の襞をなぞってくれるような優しさがあります。「あなたを求めることなど愚かだわ・・・何度も去ってみようとしたけれど あなたが必要なのだと思い知ってしまう・・こんなこと 間違っているのはわかっているけれど そんなことは関係ない・・・ 」。歩んできた自分の足跡を振り返り、消え入りそうな寂しき思い出がこの胸にこみ上げてきます。
合掌
「一変」2015年7月
翠雨が東山の木々に潤いを齎し(もたらし)、束の間の陽光が虫たちに滋養のひと時を与えてくれる頃、郷里の水田には既に青々とした水稲が風にそよぎ、半夏生を境に夏本番を迎えようとしているころでしょうか。昔から日梅、雨枇杷(ビワ)と言われ、雨の多い年はビワが豊作とのことですが、今年のビワの出来はどうだったのでしょう。いやしい話ですが子供の頃には口寂しくて、ビワが色づくのを待ちかねたようにしたものです。何しろ空腹を満たしてくれる生り木ものは、私の大切な宝物なので、ひとたび鳥などにその果実を横取りされようものなら、親の仇のように棒を振り回しながら追いかけたものです。思えば妙好人と讃えられた人たちのように、さあ、どうぞ、どうぞと出来ないのが、貧しい心のなせる業(わざ)なのでしょうか。
さて、霊山で暮らしてみて分かったことですが、京都の東山という所は、昼の顔と夜の顔が一変します。ここ本廟の直ぐお隣は世界遺産の清水寺があり、すぐ北には豊臣秀吉・北政所の墓所の高台寺があり、そこに続く三年坂と二年坂の界隈は、昼間には噎せ返る(むせかえる)くらい人で溢れ、夜になると今度は店という店が雨戸を閉め門を閉ざし、猫の子一匹通らぬほどの静寂が訪れます。かと思えば、この本廟から十分余り歩けばそこには花街の祇園があり、こちらは逆に提灯にあかりが灯る夜になると、華やいだ人々で活気づきます。観光地と言ってしまえばそれまでですが、家々から灯りが漏れ、人の喜びや悲しみの息遣いが聞こえるような姿は何処にあるのでしょう。そんな所で住みながら、私の居場所の所在なさをふと感じ、ひとり寂しく思い耽ることです。
思い起こせば、大学で仏教を学ぶため香川の片田舎から、右も左も分からぬままに出てきた私にとって、歴史の今と昔が混在する京都は、悠久のロマンを感じさせる都でもありました。夢ふくらませた地で、縁あって法華宗の本山の塔頭寺院のひとつに、学生の身で三年間居候する中で、大伽藍を擁する寺院の光と影を垣間見たような気がします。それは、どんな威容を誇る建築物にでも、壮麗であればあるほど儚いがゆえに美しく、そこに暮らしそこに携わる人の生き様が建物に宿るということです。
京都花街のひとつであった島原に程近いその寺で、かつての栄華を偲びながら読んだ小説に、水上勉の「五番町夕霧楼」があります。戦後の混乱期に実際に起こった金閣寺放火事件を題材に、悲しき遊女と若き修行僧の悲恋物語であり、遊女の献身的な純愛にも胸を打ちますが、私には作家自身が幼くして禅寺に預けられ、寺での生活が自身の人間形成と宗教や美への惑溺(わくでき)を通して、金閣寺という象徴的な美の存在を否定してしまう心の綾を描き、三島由紀夫の「金閣寺」とは異なる視座が心に残ります。かようにも人間は底知れぬ深き業(ごう)に苦しまねばならぬのでしょうか。しかし、心の闇を照らす光は、全ての人に届いているのですが、未だ出遇えぬ光を求めていくことこそ、求道であり聞法といえるのです。
大寺院に囲まれた霊山本廟の一室から流れてくるジャズ。音楽は人の心の心象描写なのでしょうか。妙なものでメジャーな曲調を選べば気も晴れるのかもしれませんが、不思議とマイナーな曲に心が癒されます。ティナ・ブルックスの「ストリート シンガー」のテナーサックスそしてケニー・ドリューの出色のピアノは、まるで都会の片隅で、不器用にしか生きていけなかった、名もなきシンガーの哀感を謳い上げているようです。
合掌
「老いた母」2015年6月
お正月早々、記録的な雪に見舞われた霊山本廟の木々にも、眩しいくらいに青葉が生い茂り、日中の強い日差しを避けるのに、その木陰が有り難い季節となってきました。ここ霊山に住み込み、再び巡り来た初夏から入梅へと向かう中で、本廟の裏山の緑濃き山並みを眺めていると、古くから季節を色で譬えられたことを思い出します。春は青春、夏は朱夏、秋は白秋そして冬は玄冬とされ、これらは人生にも当てはめる事ができ、それぞれ味わい深く考えさせられます。さしずめ今の私は、もう既に白秋の半ばを過ぎたあたりでしょうか。せめて色づいた人生の枝葉を愛おしみ、来るべき晩秋の実りである法味を味わうことが出来たらと願っています。
そんな晩秋を意識しつつ、先日ある女性との会話の中で、手のかかるようになった親の介護を通して、漸く親と心の会話ができた事を聞きました。私にとっても身につまされる話を伺いながら、香川の田舎に残してきた要介護の母親を思い、いつも病院を後にして帰る時、置き去るようにしていることに、寂しさと後ろめたさが綯い交ぜ(ないまぜ)になったような痛みを感じてしまいます。それでいて、同じことを繰り返し、さらに物語まで作ってしまう母に、つい声を荒げてしまいそうになる息子を、老いた母はどんな気持ちで見送りそして見守ってくれているのでしょう。
昔の小説に、深沢七郎の「楢山節考」があります。何度か映画化もされている名作のひとつですが、著者は姥捨て山の棄老伝説をモチーフにして、人間存在の営みを冷徹に描いています。それは、人が人を捨てていく世界、そこには人間の心をも捨てていくという、人が生き抜いていくことさえ悪行と思える悲しみの中で、ある親子の情愛を通して、死することもまた生きることであり、濁り多き生にしがみ付き、背を向けて逃げる我が子を、後ろから追ってきてまで願いを届けて下さる親心に、仏さまの大慈悲があることに気づかされます。息子が零した(こぼした)ひと筋の涙のなかに、母の願いそして仏さまの願いが光っていたのに違いありません。
今月のご紹介の一枚。かつてピカソは、スペイン内戦での空爆による悲しみ憤りを、絵画「ゲルニカ」に描いたと言われています。絵画に限らず音楽の世界でも、同じスペインにあるアルハンブラ宮殿に因んだ「アランフェス協奏曲」があります。スペインの地理的要因なのでしょうが、宗教間の争いの象徴として、数奇な歴史をたどったアルハンブラ宮殿を偲ぶように、ジム・ホールのギターやポール・デスモンドのアルトサックスが、ジャズの範疇を超えて心に響いてきます。まるでアルハンブラ宮殿の丘より地中海を臨み、どこまでも続く水平線を見るような、争うよりほかない哀しい人間への挽歌のように聴こえてくるのです。
合掌
「落飾」2015年5月
本廟の朝のお参りを済ませ、ふと春霞の中に、おぼろげに映し出される東山の稜線に目を移し、暫しの時間と空間の曖昧さの余韻に浸りながらも、いざ現実に引き戻されてみると、今の私にとって、年を渉り日を渉りて重ねてきた年月の重さは、実はこらえきれず悲喜の涙を流してきた人生そのものの深さだと感じます。私自身、霊山本廟に腰を落ち着け、早くも二度目の春が巡り来てみると、変わりゆく私と変われない私の、譬えようのないもどかしさにも似た寂しさは、人間の業ゆえの悲しみなのでしょうか。
さて、人生はよく旅に譬えられます。どんな旅が素晴らしい旅といえるのでしょう。その旅では、目的地が重要なのか、旅の過程が重要なのか、もしかすると無事に帰ってくることが重要なのかもしれません。具体的に言えば、人生の旅の中で出会う人や、目に映る景色、時間や場所が大切な事なのでしょうか。それとも、目には見えない所での内観である心の旅が、人間としての旅だと言えるのかもしれません。いずれにしても、悲しい別れを繰り返し、思うにまかせない人生の旅を、そして二度とない人生の意味や意義を問いたずねていく心がなければ、人として生まれた喜びはありません。故にその答えは、まさしく道を求めていく「求道」であり、真実を求めていく「聞法」にこそあるのです。読んで字の如く、人の「心」を「亡くす」者は、人間であることを「忘れた」、人の仮面を被った獣に違いありません。私に、そしてあなたに残された旅の時間は、多くは無い筈です。彷徨い(さまよい)あてどのない旅が、仏さまに導かれし信楽の道へと、今歩む人生を送りたいものです。
思えば人生という旅の中で、私がいつも気に掛けている好きな言葉があります。それは「落飾」という言葉であり、自身への反芻言葉でもあります。単なる意味としては、出家を表しますが、飾りを落とすとはどういうことなのでしょう。
かの浄土三部経の「観無量寿経」に登場するマガダ国王の妃である韋提希夫人は、我が子に夫王を殺されそうになり、自身は幽閉され、愁憂憔悴(しゅううしょうすい)の悲しみと絶望の果てに、悲泣雨涙(ひきゅううるい)して釈尊に教えを請うたのです。釈尊を目の前にして、韋提希夫人は自ら瓔珞(ようらく)を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣する姿がお経に表されています。この瓔珞こそ王妃の権威を示す宝石でありながら、我が身がそれに依って立ち、生き様としてきた全ての象徴である瓔珞を、釈尊の前でまさに「落飾」した時初めて、韋提希夫人の心に教えの門が開かれ、甘露の雨が降り注いだのです。
人は誰しも虚飾を捨てきれません。むしろ正確には根源的に持っているものといえます。何も身を飾るもののあるなしではなく、心が瓔珞を大事に抱えているのです。ある意味、我が心の瓔珞は、自分では外せません。韋提希夫人は、自ら外したのではなく、釈尊という仏さまの願いの象徴たる姿に「落飾」したのではなくされたのです。仏さまの真実心に出遇うことは、心が投げ出されてしか頂けません。ただゞ信順(おまかせ)していくのみです。
私たちは勧善懲悪ものが好きです。その最たるものは、かつてよく放送された水戸黄門でしょう。毎度、お馴染みの印籠が終盤に出てきて、皆溜飲を下げるのですが、もっと早く出しなさいなどと野暮なことは申しません。けれど、印籠ひとつでひれ伏すなどは、人間が如何に虚飾である瓔珞に無抵抗で、なおかつ欲しているかの表れです。印籠(瓔珞)を取り去れば、皆と同じただの御隠居さんです。 人には一服のやすらぎの音楽を聴く時間も必要です。ジェリー・マリガンの「Night Lights」は、傷ついた心を慰めてほしい時に、そっと手許に置いておきたいアルバムです。針を落とした時によみがえる思い出。「カーニバルの朝」を含め全曲、寂しい夜を過ごすあなたと共に。きっとマリガンのバリトンサックスが癒してくれるでしょう。
合掌
「尊厳」2015年4月
春の観光シーズンの到来を告げる、京都東山の社寺を彩る花灯路は、すでに十三年目を迎えているとか。幾重にもつながる万燈の灯りは、幽玄の世界を醸しだし春宵の京の雅を演出しています。ここ霊山本廟の参道をほのかに照らす行燈を見つめていると、ふと「長者の万燈より貧者の一燈」の言葉が脳裏を過ぎり、僧侶のひとりとしては別な意味で、一隅(いちぐう)を照らす一燈でありたいと願うのは、はかない望みなのでしょうか。
さて、本廟に赴任してから早一年、春の穏やかさにつられたわけではありませんが、田舎への郷愁が折に触れて募ることがあります。長閑な田園を飛び交うモンシロチョウの姿やヒバリの鳴き声には、荒んだ心を和ませてくれる趣があり、子供のころには時が経つのも忘れたものでした。なかでも優雅に舞う蝶々は、私の格好の遊び相手で、当世風にいえば追っかけをしていました。
よくよく観察すると、幼虫から蛹(さなぎ)になり蝶々へと生まれ変わる姿には、目を見張るものがあります。もとの青虫とは似ても似つかぬ綺麗な蝶々となるその成長過程には、蛹という不思議な期間があります。有り体に言えば、姿態を変えるのに蛹としての時間が必要ということです。新しい世界へ羽ばたくために蛹となり、自らの身体そのものを溶かし生まれ変わっていく様は、何かしら憧れさえ抱く生命の神秘といえます。私とて容姿が生まれ変われるものなら蛹にもなり・・・・徒事なことです。
しかしながら、姿形は変えられなくても、人には生まれ変われるものがあります。生まれ変わりで思い出すのが、イプセンの「人形の家」の主人公のノラという女性のことです。私が若かりし頃、よく理解できないまま読み飛ばしてしまった小説ですが、夫婦の心の機微について、当時の私には理解できるはずもなく、ただ人間には単なる愛情以上に大切なものがあることにノラは気づき、生まれ変り飛び立つ姿に、生新な女性を感じたのを憶えています。
今読み返してみると、宗教的な味わいはあまり感じませんが、ノラは鷹から身を守る小鳩のように夫の翼の下にかくまわれ、籠の中で囲われた鳥であったことに気づいたわけです。つまり、愛玩たる人形に新たな生命が宿り、人形の心の衣装を脱ぎ捨てた時、それは人形のノラが生まれ変わった姿であったのでしょう。ノラにとって生活の安住を貪ることより、人間としての尊厳を貶められることが一番辛いことだと。私も気づくのが遅すぎました。反省しきりです。
ただし、時として人は尊厳なるものが尊大になりかわる時があります。尊厳が自我なる執着から起こりうる内省なくしては、因果の道理をわきまえない慢なる我執に他なりません。それでは、仏教の持つ本当の生まれ変わりとは、何を意味するのでしょう。それは我が心が道徳的に悔い改め、心が入れ替えられることではなく、今までの価値基準がいかに危うい自我の上に立っていたかに目覚めることを意味します。まさに心が改まることではなく、重篤なる心が転ぜられていく世界が頷けた時、悲しみは悲しいながらも癒され、苦しみは苦しくとも、願いに生かされた我が身へと、廻心(えしん)されることなのです。
今宵も、是非聞いておきたい曲があります。ウォルター・ビショップ・ジュニアの「Alone Together」は、アルバムタイトル曲の「スピーク ロウ」の名演の影に隠れがちですが、この曲は哀愁のバラードでありながら、ウォルターのピアノは甘さに溺れることなく、凝縮された人生の哀歌を力強く歌い上げています。『二人一緒にいるだけで 突然の雨も 星さえない夜も むなしくなんかない 恐れるものなどないんだ・・・・』悲しい心に寄り添ってくれる者がいる人は幸せです。けれど、たとえ気づかなくても、必ず案じて下さっている仏さまと一緒です。
合掌
「恩讐の彼方に」2015年3月
早春を告げる梅便りが聞こえてくると、つい郷里の自坊に自生するフキノトウを思い出します。ここ霊山本廟の留守職を任せられた限り、ゆっくりと田舎で過ごす暇などはありませんが、ならば霊山本廟でも山菜採りが出来ないものかと周辺を見渡せば、やたらお掃除箇所ばかりが目に付き、仏さまはきちんとお仕事の方を用意してくれていました。どうやら悠長に春を味わう余裕などはなさそうです。ただ、それでも日差しの中に温もりを感じるようになると、啓蟄とは言い得て妙で、自然と背伸びをして気持ちも緩みそうになります。
さて、歳を重ねるにしたがって昔を懐かしむのは人の世の常ですが、私自身にとって、色あせることなく心に留められた思い出や感動は、慰めにも似た追憶の喜びのひと時をもたらしてくれます。そして悲しくて辛かった出来事でさえも、懐旧の涙を流す一齣(ひとこま)の中に、たぐいない人生の彩りとしていただけるのです。
中学生の頃、父の書斎の本棚にある一冊の本に目が止まったのを憶えています。手に取り少しめくると、歴史的仮名遣いではありませんが近代文学特有の読みづらさから、本棚に戻そうかと思いながらも、題名のもつ不思議な響きの魅力に惹き込まれてしまいました。その本とは「恩讐の彼方に」という短編小説であり、郷土出身の著名な作家である菊池寛の出世作品のひとつです。
「表裏」、「明暗」、「有無」、「虚実」、「黒白」等々、反対の意味を持つ熟語は沢山あり、それこそ枚挙にいとまがありません。その中でも人間存在に係る言葉には、何かしら悲哀とともに生きるが故の苦悩そのものの響きを感じます。「生死」、「善悪」、「苦楽」、「愛憎」等々は、人としての内包する根源的な問題として、避けては通れぬ悲しい響きなのです。「恩讐の彼方に」の「恩」は、情けとか慈しみを表します。反対に「讐」は、かたき、あだなどを意味し、相反する人間の感情表現としての新鮮さを感じます。菊池寛自身が「彼方に」描いてみせた世界とは、人の持つ優しさと瞋恚という怒りとの相克を、決してお涙頂戴ではなく、身も心もやり場のない葛藤、それでいて、人が立ち帰るべき姿にあったのではないのでしょうか。
内容について詳しく紹介する余裕は紙面上ありませんが、歴史上に実在した「青の洞門」を基づいて書かれているとはいえ、おそらくこれが男女の痴情のもつれ云々を全面に絡ませたりすると、浄瑠璃の題材の域をでなかったでありましょう。改めて読み直すと、それは人間の犯さざる罪業という大きな巨岩に、ノミを持ち槌を振るう姿を通して、逆に人の恨みという哀れさもまた罪業に他ならぬことを暗示しているのだと思います。
今月も、心に残る名曲を聴きながら。・・先立たれた方を見送り、ひとり残された寂しさは、誰しもいつの日か味わうことです。マル ウォルドロンの「レフト アローン」には、残されし者の悲しみが記録されています。波乱万丈の人生という言葉だけでは足りないビリー ホリデイ作詞の歌には、私にとっても辞書を片手に訳すことさえ躊躇してしまう何かを感じます。『私の心を満たしてくれる 愛はどこなの 決して離れずにいてくれる人はどこにいるの みんな私を傷つけそれから見捨てていった 私は一人 ひとりきりなの・・・』ジャッキー マクリーンの嗚咽にも似たアルトサックスが、そして彼女に捧げた、マル ウォルドロンのピアノが、痛々しくも夢の跡を追うように、残された者のみに許された、悲しき旋律を奏でています。
合掌
「鹿の子の御影」2015年2月
夜半より降りかけた雨は、除夜の鐘の音とともに、煙雨となって一年の終わりを告げようとしていました。ここ霊山本廟でも、除夜会の勤行の後、お参りの方々が入れ替わり立ち替わり梵鐘をつき、過ぎ去りし一年を振り返りながら、新年に期待を膨らませているようでした。それにしても、新しい年を迎えながらも、歳を重ねる度に感じるえも言われぬ一抹の寂しさは、文豪トルストイも内観したように、時間そのものが流れているのではなく、流れ流されているのは自分自身であることを、遠く空を眺めながら身と心に落ちる氷雨の中に感じることでした。
元旦の昼ごろに雨は雪に変わり、例年の三が日なら溢れかえる本廟の参詣者も、京都に訪れた約六十年ぶりの大雪に出鼻をくじかれ、しかし反対に、押して参詣頂いたお参りの方とは、ゆっくりと語り合うことができ、雪景色と相まって、思い出になる参詣として頂けたのではないのでしょうか。ただ、瀬戸内育ちの私では、さすがに雪かきやらゴム長靴でのお参りだけは、何ともくたびれたお正月となりました。
さて、寒い冬の夜、最後に寺務所の戸締りをして、薄暗い階段を降りながら、ふと思い出すのは、父が晩年に掛け軸を取り寄せてまで思いを馳せた「鹿の子の御影」のことです。蓮如上人の幼いころの出来事で、生き別れた母への追慕の物語であり、その痛嘆はご生涯を貫き通し、生身の人間であるがゆえの、凡情という積木の上に立つ、念仏者蓮如上人の原点がそこにはあります。
僅か六歳の我が幼子(蓮如)を残してまで本願寺を出てゆかねばならない事情、別れる母としてできる精一杯であろう、鹿の子絞りの着物を蓮如に着せ、その姿絵を形見として胸に抱きしめる心情。嫡子でないがゆえに身を引いた母に対して、別離の悲しみだけではなく、子を案じた母の願いを,自身のいのちの中に受け止めたからこそ、闇夜に溶けていった母の姿は、光となって蓮如上人のもとに戻られたのに違いありません。今から、五百九十四年前の二月九日(新暦)、寒い日の出来事でした。
寒い夜に、レッド ガーランドの「What Can I Say After I Say I`m Sorry?」は、カクテルピアノといわれても、こんな素敵なピアノに慰めてもらいたい気分の時もあります。『ごめんなさいと謝った後 これから何を言えばいいんだろう あなたを苦しませるためにしたことじゃないんだけど・・・本当にごめんね』。戻れない日々はわかっていますが、音楽だけはあの日に帰れます。
合掌
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「新春」2015年1月
謹んで新春のお慶びを申し上げます。
初めて霊山本廟で迎える年末年始は、忘れそうになっていた感動を呼び起こすものでした。寺で生まれ育った私にでさえ、当たり前の光景が、実は、いとおしき非日常であったことを改めて知らしめるものでした。それは、毎日が常ならざる世界である事を、老いてゆく父親が寂しい別れをしてまで諭してくれた無言の戒めに通ずるものです。
私にとってこの霊山本廟に住込み、本堂へと繋がる五十段の階段を上った先にひろがる世界は、夏目漱石の『草枕』の文中の会話にも登場する、ものが逆さまに見える、まさに全てのものが逆転する世界がそこにはありました。
「別れの中にこそ、別れた人との本当の出会いがある世界」、「悲しみの中にこそ、喜びがある世界」、「往く世界こそ、還っていく世界」。しかし、実際のところは、その世界に頷きながらも階段を降り、温かい布団にくるまれて、嬉々としてこの世の安住にしがみつく、まるで聞き分けのない駄々をこねる幼児の姿の私があります。
寺で生まれ育った者にもそれゆえの、名状しがたい苦しみがあります。透けて見えてしまう世の中の偽りに対する反発、寺の束縛からの反抗、み教えの頂の高さへの畏怖、これらを目の前にして立ちすくむ、めまいにも似た不安。これらを生活の中でかかえながらも、僧侶として生きることは、自己にも偽りの世界が内包する問題として、私への、み仏の悲しいまでの願いとして、再び苦しみまでも受け取りなおした時、あらゆる手立てを施してまで私にかけられた、み仏の願いに目覚めていくことなのです。
浄土真宗は、誰のためのみ教えなのでしょう。私のため、あなたのため、人のため、全てのもののためでしょうか。生老病死に代表される四苦八苦の苦しみは、それを内観する人にとっては、み仏の願いが光として届けられています。悲しみもそして苦しみでさえ、我がいのちの中で働き、輝きを放つ不可思議な光となるがゆえに、私のために起こされたものだと、み仏の願いの生起がいただけてくるのです。何という広大無辺なみ仏の願いなのでしょうか。その願いは、我が心に念仏を称える(となえる)という華の種を蒔いて下さり、華ひらくその念仏の称らい(はからい)は、往生浄土という本末の在り処(ほんまつのありか)を信知せしめて下さるのです。
後になりましたが、霊山本廟に来て九ヶ月、その間には、四十年ぶりに再会できたクラスメート、親鸞聖人御像の前でそっと手を合わす一人の少年、投げキッスをしてくれる女の子、なかには厳しいお言葉も頂戴しながら、お一人おひとりとの出会いの喜びを頂ける場所は、ここ霊山本廟だからこそと、しみじみ振り返る一年でした。お礼を申し上げます。
今宵もまた、ビル エバンスの「マイ フーリッシュ ハート(愚かなりし我が心)」のピアノに心は酔ってしまいます。『 夜は いとおしい歌のよう 愛なのか ただの魅惑だけなのか こんな夜には 見分けがつかかなくなってしまいそう・・・』。誰にでも思い出の中に、心がうずき胸がが締め付けられるような出来事があると思います。ビル エバンスの心の糸をときほぐすような澄みきったピアノには、それが単なる甘酸っぱい出来事だけではなく、悩み傷つきながらも生きてきた、証しであることを私に教えてくれます。
合掌