本恩講・御恩講といったネーミングセンスは秀逸

こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。

今回はタイトルに「本恩講」や「御恩講」という言葉を載せました。

お坊さんからすればすっごい違和感を覚えるのですが、この言葉は11月・12月のお参りに行った時のお布施袋の表書きに書かれていた言葉です。

つまりこの言葉は、浄土真宗の宗祖親鸞聖人のご命日お勤めである「報恩講(ほうおんこう)」を書き間違えた文字なんですね。

『ああ~、漢字間違えかあ』と思うでしょうが、意味はしっかりと伝わるでしょう。

それにどことなく本恩講や御恩講もいい言葉に思えてきませんか。

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報恩講のネーミング由来。

報恩講は浄土真宗の宗祖親鸞聖人のご命日法要ですね。

それぞれの真宗宗派本山では11月28日・1月16日に営まれているのは有名ですね。

ではいつから親鸞聖人のご命日法要が報恩講と名付けられたのでしょうか。

それは親鸞聖人のひ孫である本願寺3世覚如上人が記した『報恩講式』が由来だといわれています。

報恩講式とは親鸞聖人の33回忌の法要に合わせて作成したものです。

そのため現代では、親鸞聖人のご命日のお勤めのことを、報恩講(ほうおんこう)と広く使われるようになっています。

本恩講や御恩講もいい名前じゃない。

私個人的には、本恩講(ほんおんこう)や御恩講(おんおんこう)もグッドなネーミングに感じるのですがどうでしょうか。

「いやいや報恩講とは親鸞聖人の恩徳に報いる講なのだから、『報』を使わなければならないんだ。」と考える人もいるでしょう。

確かにその通りなのですが、でも例えば蓮如上人の書かれたお手紙(御勧章)の中には次の文がありますよね。

聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。

その故はもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう。

その位を「一念発起・入正定之聚」とも釈し、その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり。

第5帖第10通目「聖人一流の章」より

この文章は聖人一流の章と言われ、蓮如上人が書かれたお手紙です。親鸞聖人の報恩講のお勤めをする時期に拝読することが多いです。(宗派によっては読みません)

内容は親鸞聖人が生涯をかけて勧められたのは信心が何よりも大切なんですよということ。それは阿弥陀仏の願いをしっかりと聞きなさいよということ。往生が定まった状態の念仏は、御恩に報いるお念仏だということ。

親鸞聖人はその生涯の中で、阿弥陀仏の教え・誓い願いについて教化して、信心をただ受け取ってくださいよ・これが一番大切ですよと勧められました。

報恩講とは親鸞聖人の恩徳に報いるという意味ですが、仮に本恩講ならばこの私に信心を届け報恩謝徳のお念仏を勧められた親鸞聖人の本当の恩徳に対するお勤めという意味になるでしょうし、御恩講もやはり親鸞聖人のその有難いご教化のご恩に対するお勤めという意味になるでしょう。

私たちは何気なく報恩講という言葉を使っていますが、この言葉には報(本)恩講報(御)恩講という言葉が隠れているように感じます。

蓮如上人はこの宗祖の命日のお勤め(御正忌)を通じて信心をいただいてください、浄土真宗は信心が本(もっとも重要)なのですからとお手紙(第5帖11通目)より述べています。

信心があるから宗祖のご命日が勤まるのではなく、宗祖のご命日のお勤めを縁として信心とは何か・念仏とは何か・仏恩とは何かということに気が付いてくれよと呼び掛けているのです。

その本当の恩・大切な恩を知る法縁ということで、私は報恩講のことを本恩講や御恩講と表記してもいいような気もします。(報恩講という言葉に慣れてしまっているので違和感を覚えてしまいますが)

なぜ本恩講や御恩講と書き間違えたのだろうか。

さて毎年のように各御門信徒宅のお仏壇に報恩講さんのお参りに行きますと、数名から「本恩講」や「御恩講」と書かれたお布施を預かります。

恩に報いる講ですから「報」の文字ですよ説明するのですが、なかなか恩に報いるというイメージを持ちづらいのかもしれないですし、一年も経つとまた忘れてしまうのかもしえれません。

それと書き間違える要因には、もう一つ思うことがあります。

それは浄土真宗のお坊さんをはじめご門徒の多くは報恩講のことを「ほんこさん」と報恩講のことを親しみを込めて呼んでいるんですね。

「ほんこさん」という言葉の響きを聞くと報(ほう)よりも本(ほん)や御(おん)の方を連想してしまうのかもしれません。


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さいごに。

今回は報恩講のことを本恩講や御恩講と間違える人がいることを紹介しました。

でも私個人としては本恩講や御恩講でも十分に意味が通じると感じます。そんなに的を外しているように思えません。

そういえば浄土宗では宗祖法然上人ご命日のお勤めとして知恩講(ちおんこう)が名付けられていますよね。

あの言葉にも恩を知り、恩に報いるという意味があるでしょうから、浄土真宗で言うところの報恩講とそう差異はないでしょう。

恩に報いるという言葉は難しいように感じます。そう考えると本恩・御恩・知恩はストレートに理解しやすいように感じますし、素晴らしいネーミングセンスだと思いませんか。


余談ですが、一度だけ法恩講とお布施袋に書いた人がいました。

どのような思いで書かれたのかわかりませんが、おそらく仏法と仏恩に出あうご縁のお勤めという意味で書かれたのでしょう。

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