こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
先日、色んな宗派のお坊さんが集まる会合に出席しました。その後の懇親会ではお寺や僧侶などに関する様々な意見交換がありました。(まあ、そんなに真面目な雰囲気ではなく、お酒を飲みながらざっくばらんな会話ですが)
その中の一つに私にとって非常に気になる内容がありました。
- 法事って長すぎるよね。
- 短く済ませてくれませんか。
- 良いところだけ読んでください。
このようなことをお参りに行ったご門徒さんから言われるのだそうです。
特に私の宗旨は浄土真宗ですから、三部経(さんぶきょう)と言われ、中休み2回を取り2時間程度もかかってしまいます。
すると他のお坊さんからは、『ああ、それって嫌われるよ。』・『一時間以内に終わらせないと。』とアドバイス?を頂きます。
さあ、どうでしょうか皆さん。法事の時間って退屈でしょうか。短いほうが良いのでしょうか。
そんなことを書いていきます。
法事の時間は宗派や地域や寺によって大きく異なる。
一般に浄土真宗のお勤めの時間は長いようです。一方で真言宗や禅宗などはそれほど長くはないようです。
実際、香川県の田舎に住んでいます真宗僧侶の私は、祥月命日のお勤めでも読経に30分程度、年忌法事ではお勤めをすべて終えるのに1時間30分は要します。真言等は法事でも1時間はかからないそうです。
ただ同じ浄土真宗でも大阪や京都といった都会の方に行きますと、法事の時間が短くなるようです。聞くと祥月命日のお勤めでも10分程度で終えることができるらしい。
このように「法事の時間が長い」とは一概に言えず、地域や宗派によって大きく異なります。
また同じ地域でもお寺によって法事の時間・構成が違っていたりもします。
ちょっとややこしくなる話ですが、浄土真宗ではお勤めの構成がこれだと決められていることは少ないです。自由に読みたいものを読めばいいのです。しかし年忌法事ではやっぱり真宗要の仏説無量寿経、そして四十八願を読経します。報恩講なら正信偈です。
しかし「真宗のお勤めは長い」・「良いところだけ読んでくれ」・「短くしてほしい」と言われ続けているので、それなら仕方ないということで、仏説無量寿経をすべて読み、後はお話の時間に回し法事を一時間で執り行うお寺もあります。
そんなこんなで、「あのお寺は長く丁寧にお勤めする」・「こっちのお寺は急いで読んで全部読まなかった」っと後から、ごぞごぞ言われたりもします。
長いお勤めの時間は退屈なのか?
浄土真宗はお勤めの時間が長くなりがちです。実際私も法事の時間はどんなに急いでも一時間はかかってしまいます。
でもそんなことを話しますと、他の僧侶から『それって嫌われるよ、一時間以内に終わらせないと』と言われました。
さらにはこんなことも言われました。
『一遍自分のお勤めを録音してみて、聞いてみたらいいよ。退屈やから』
なるほどお坊さん自身が退屈やと思うんやと、関心しました。私とは違う意見でした。
例えば私もこの2年の間に親族の法事に行きました。私から言えば祖父の姉である大伯母の年忌でした。
大伯母の家にも浄土真宗の檀那寺があり、そこのお寺の僧侶が法事を執り行ってくれました。私は衣を着て他の親族たちと同じところでお参りしました。浄土真宗だけあってやはり2時間近くのお勤め時間でした。さらに続けてお座敷で食事があり、計4~5時間程度だったと思います。
そして自分が退屈だったかと聞かれれば、全く退屈なことはありませんでした。
私はお坊さんですから年間1000時間以上も同じお勤めをし続けているでしょう。耳タコができそうなほど耳にしていますが、お参りに行ったお勤めが退屈だっとは思いませんでした。
なぜ退屈やと感じる人がいるのだろうか。
それは法事の時間が面倒。自分にとって関係がない。この場所におるんが窮屈や。さっさと帰りたいと思っているからではないのだろうか。
正直なことを言いますと、私も大伯母の法事に参列した親族の顔も名前も全く分かりません。どこに住み・何をしているのか・どんな関係なんかも知りません。言うなれば赤の他人状態です。
でもですね。法事というのはそれが有難いんですよ。亡き人のご縁が無ければ、こんなよく知らん親族同士が顔を合わすこともなかったのですから。
法事というのは「亡き人(故人)を偲ぶご縁」とお坊さんはよく言うでしょう。
「偲ぶってなんやねん。」って思われる人もいるかもしれませんが、偲ぶというのは亡き人のことを思い出してただ語るというのではなく、亡き人のご縁からその人を通してお参りした人たちの思いを巡らす・共有する役割があります。
今の時代は孤独社会と言いますか、親族同士でも繋がりの希薄化がかなり進んでいます。昔でもなかなか会えない疎遠の親族同士はいました。それでも法事の時には数年ぶり数十年ぶり、はたまた初めて出会い、自分だけでない命のつながりというご縁を頂いていたのです。
といっても法事が退屈と感じている人には、それがどうしたの世界かもしれませんが。
法事の時間を短くするのはどうなのか。
実際問題、法事の時間を短くすることは可能です。現に同じ浄土真宗のお寺でも早く終わらせるところはありますから。
しかし今の若い世代の人は知らないと思いますが、昔のお勤めはもっともっと長かったんですよ。
例えば『宵法事(よいほうじ)』、最近ではほとんどの家がしませんね。
これは法事の前夜からお坊さんが家にお参りに行き、身の濃い人たちと一緒にお勤めをしていました。(その名残として、初七日・二七日といった中陰のお勤めも宵の日にちが記されていることがあるでしょう。お通夜も葬儀の前夜に勤めるでしょう)
他にもお寺の記録を見ますと、五日間の法事・一週間の法事もありました。何をしていたのか私も気になりますが。
またこれは私の住むところでつい60年・70年ほど前でもあったお勤めですが、仏説阿弥陀経を500遍・1000遍続けて読経するのもありました。3日はかかったそうです。
まあそんな極端な話は置いておいて、法事の時間を短くするのはどうなのだろうか。
他のお坊さんのアドバイス?も聞けば、短くした方がお参りの人に嫌われなくていいのかもしれませんね。
時代の流れ・ニーズ的にも短くならざるを得ないのかもしれません。
ただ頭の固いお坊さんの私から一言。
「故人を偲んだり、心の整理・気持ちの落ち着きには、それなりの時間が必要なんですよ」
最近では「時短(じたん)」という言葉がマスコミや書籍等々から頻繁に出現しています。
世の中便利な道具が出てきて人々の生活が豊かになっても、人生が楽になり悩みが減ったかと言えばそんなことはありません。
仮に昔の貧しく楽のできない日常であっても、いざ法事のご縁というのは、非日常の場であり、故人を朋に偲ぶ時間を過ごす中で、私自身の心を見つめる時間もいただけていました。
しかしそれが20分や30分でサササッと終えるようなあっという間の法事ではどうなるのでしょうか。集まった人同士の会話もない・食事もない法事は。
そこに法事の意義はあるのでしょうか。時間というのは長すぎても駄目なのかもしれませんが、それなりの時間は必要です。
浄土真宗では中休みという休憩時間を法事の最中に挟みます。
あれは僧侶が休みたいからではなく、読経の合間に僧侶を交えて親族やお参りの人達の交流の場、お話の場を設ける役割があります。
法事に限らず仏教行事というのは、亡くなった人のために生きている人が集まり一方的に祈る場ではなく、亡くなった人のご縁から残された人たちのつながりとなる場なのです。
「私があなたに(故人)にしてあげた」のではなく、「あなたが(故人)が私のためにこのお参りを用意してくれた」のです。
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さいごに。法事は滅多にない。ぜひお参りしてみては。
う~ん。私がこんなこと言っても、『はい。わかりました。お参りします』とはならないでしょうね。
今の時代、人と交わるのが面倒っていう人が多いんですから。
話変わって、最近では結婚式をしない夫婦が増えているようです。
理由を聞きますと、結婚式をしなくても夫婦になったのは当事者同士が分かるからだそうです。
でもですね。結婚式も法事や葬儀式と非常に似たような面があるですよ。(仏教も仏前結婚式をしますよ)
こういった式というのは当事者同士が満足するためにするのではなく、そこに集った縁のある人同士が顔を合わせ、祝福や偲ぶことでお互いのつながりを強固にしていくのです。
意味があるからする。意味がないからしない。そんな価値観の話なのだろうか。
そんなことを言うのであれば、葬儀の花輪やお香典や盛り篭など、すべて要らないよね。
滅多に出会うことのない人生の節目。その有難いご縁を共にゆったりと過ごしてはどうだろうか。