簡素化の意味をはき違えていませんか.#295

第295回目のラジオ配信。「簡素・簡略」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

内容まとめ
  • お盆や灯籠流しの仏事が無くなりつつある
  • 簡素化の意味を多くの人がはき違えているのではないか
  • 上皇さまは自身の生前退位や墓・葬儀を抑える簡素化を望んだ
  • しかし簡略化とは言っていない
  • 簡素は、本質的な所は大切に残しつつ、華美になったものはおさえ、質素・素朴なものにしていくこと
  • 簡略は、複雑な所は省略、短くしていき簡単にしていくこと
  • 省いていく簡略化が進んでいくことによって、本質的なものが失われるかもしれない
  • 仏事イベントの簡素化が進んだ結果、しなくてもいっかみたいな風潮になったように感じる
  • 四百円ほどのお盆の灯籠すらお飾りされなくなった
  • お坊さんの私は仏事の簡素化は否定しない
  • これからも続けられるように、大切な所は残しつつ、シンプルにできる所は変えていくこと

かっけいの円龍寺ラジオ

これは香川県丸亀市にいるお坊さん、私かっけいの音声配信です。

今年の夏も暑いですね。

数日前の8月31日にあった自坊の灯籠流し法要でも、夜の7時なのに、32度の気温と昔では考えられないほどの暑さでした。ほんの10年ほど前でも、この時間帯は28度くらいだったことを思えば、ここ数年かなり暑くなりました。

丸亀では8月の末に灯籠流しが行われています。

8月のお盆が終わった直後ではなく、なぜ8月の末なのか、確かなことは分かりませんが、私はおそらく灯籠流しが納涼の夕べ、夕涼みをかねていたからだと想像しています。

暑さも落ち着いてきた残暑の頃、秋の気配を感じながら、お盆に火を灯すことで先祖をお迎えし送った灯籠を流し、先祖への哀慕の念を大切にしていかれたのではなかったでしょうか?灯籠のお光ひとつひとつに亡き人、仏さまを見ていったのでしょう。

しかし私は思います。

最近はお盆の仏事、灯籠流しの仏事が無くなりつつあるように感じます。

今回のお話は、お盆、灯籠流しの法要を通して、お坊さんの私が感じていること、簡素化の意味を多くの人がはき違えているのではないかということを話していきます。

さて、最近のお盆や灯籠流しを見ていると、だいぶ寂しいものになったなあと感じます。

いや別にこれは、お盆や灯籠流しだけじゃないですよ。

年忌の法事、祥月命日の法事、お墓でのおつとめ、地域の宗教行事、そしてお葬式など、どんどん寂しいものになっています。

ここ10年20年前くらいから、宗教イベントや地域のイベントを簡単にしていこう、なるべく負担のかからないものにしていこうという流れがありました。

そしてその流れがここ数年、さらに加速しています。

きっかけは二つあるでしょう。

一つは、令和二年から流行した新型コロナウイルス。もう一つは、平成の終わる前に、前の天皇が上皇さまが自身が生前に天皇を退く退位の儀式を簡素にしたいこと、そして自身の葬儀を土葬から火葬にするといった葬儀に関することを簡素なものに希望するもの。

私はこの二つが、ここ最近の簡素化の大きな流れにつながっているんじゃないかと思います。

ただし注意しなければならないことがあります。

たしかに上皇さまは自身の葬儀や、自身の退位を簡素なものにするように願いました。それは国民生活への影響を抑えるためです。

しかしけっして簡略化したいなんて言っていません。

儀式を省く、しないなんて言っていません。

やるべきことはきちんとやって、簡素にできることは簡素にしてでも続けていくんです。

最近はなんにでも簡素簡素という言葉が使われています。

例えば、七回忌を簡素に、最後にしますとか。

葬儀は簡素に、参列者は家族のみで、地域の人には案内しませんとか。

世の中は簡素化の流れなんだから、自分たちもいろんなイベントを簡素にしてもいいよねって感じになっています。

でもですね。簡素と簡略は違います。

簡素というのは、本質的な所は大切に残しつつ、華美になったものはおさえ、質素、素朴なものにしていくことです。

一方で簡略とは、複雑なところを省き、簡単なものにしていくことです。

簡素にしていくことは、儀式をとりやめることじゃないです。質素なものに変えていっても、大切な所・本質的な所は残しつつ、これからも続けていくことが簡素化です。

簡略にしていくことは、複雑な所は省略、短くしていき簡単にすることです。しかし簡略化を進めて、省略していった先が、じゃあやめようか、しなくていっかといった、本質的なものそのものが失われた世界になっていると思います。

私はここ数年のお盆や灯籠流しを見て感じます。

お盆のお供え、灯籠をお飾りする家が本当に減りました。

私のお寺の境内にはお墓がいくつかあります。

私のすむ香川県の丸亀周辺では、お盆には墓前灯籠といって、竹と紙でできた小さくて素朴な灯籠がお墓に置かれます。

20年ほど前だとほぼすべてのお墓に墓前灯籠が置かれていました。

それが5年ほど前から急に減り、今年になると、私のお寺のお墓では、お寺の人がおいた二つの灯籠さん以外、誰も置いていませんでした。誰もですよ。

今年灯籠流しでお墓の灯籠さんを集めるとき、お寺がお飾りした灯籠以外なくて、この5年で急激に変わったなあ、お盆に灯籠をお飾りしなくなったかあと思いました。

灯籠だって決して高すぎるものではないんですよ。

スーパーで400円ほどの値段であるので、お盆のお墓灯籠がお供えできないほど、贅沢豪華なわけではないはずです。

でも仏事イベントの簡素化が進んだ結果、しなくてもいっかみたいな風潮になったんですね。私もしないから、あなたもしないでおこうみたいな感じです。

質素・素朴になったとしてもするべきことはきちんとするのを簡素というんですよ。やらないことを簡素とは言いません。

オリンピックの簡素化はオリンピックをしないことじゃないでしょ。平和記念式典の簡素化は式典をしないことじゃないでしょ。入学式・卒業式の簡素化は、入学式卒業式をしないことじゃないでしょ。

コロナ禍の中で、簡素にしないといけないところはありましたが、大切な所を絞って立派にイベントを行いましたよね。

お坊さんの私は、仏事の簡素化は否定しません。負担になる所はおさえたらいいんです。

大切な仏事なんですから、これからも続けていけるように、大切な所は残しつつ、シンプルにできる所は変えていったらいいんです。

決して仏事をしなくていいなんて言ってません。

そんなことを言うと、亡き人を偲ぶ気持ちがあればそれだけでいいんじゃないのかと答える人もいるかと思います。

もちろん亡き人を偲ぶ気持ちがあるのは前提としてあるべきです。それは簡素であろうと、豪華・華やかなものであろうと、前提としてあるものです。

しかしここ数年、お墓の様子を見ますと、灯籠をお飾りしていない家は、お参りに来ることも少ない、お花もあげない、お水も換えない、ととても先祖を敬っているようなそぶりには見えません。

偲ぶのは気持ちの問題だからと言って、それが姿・態度にあらわれないのはおかしいのではないでしょうか?

少なくとも、亡き人の命日、あるいはお彼岸やお盆に、お花を手向けたり、手を合わせたりといったことは簡素化簡素化といったとしても、されていくものではないでしょうか?

簡素化というのはやらないことじゃないんですよ。

大切なことを残し続けていくために、華美になるところを抑えていくことを言います。

簡素化の意味がはき違えられているように感じます。

今回は簡素化についてのお話をしました。

かっけい
かっけい

下のリンク先で、香川県丸亀あたりで見られるお盆の灯籠を紹介しています。

お墓に飾るカラフルなお盆灯籠は広島ならではの風習と思われがちですが、ここ香川県中西部あたりでも似たような風習があります。

ただ最近ではこの墓灯籠もお飾りする人が減り、かなり数が減ってきました。お盆になれば、スーパーで普通に400円くらいで売っているんですけどね。

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