ほしい物リストより、お線香ありがとうございました

お坊さんの私でも法名に院号というのは基本不要だと思うのですが。

こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。

この頃の故人の法名(戒名)の事情を見てみますと、『世の中では戒名料が高い、院号料はもっと高い!』という声が聞こえてきます。

そんなに高いお金を名付ける必要があるのかという声もあるでしょう。

中にはお坊さんでない人が、自分勝手に名付けようとする場合もあるようです。

法名および院号については言いたいことがたくさんあるのですが、今回は院号の要・不要をテーマにお話します。

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法名(戒名)の必要性。

先に申しておきますが、仏教徒もしくは真宗徒ならば戒名か法名は必要となります

法名(戒名)とは「釈○○」という形の名

現代では宗教的意識が薄れているのか、「法名(戒名)とは人が亡くなった後にお坊さんが勝手に名付けてくる意味不明な名前」という印象を持たれているのではないでしょうか。

正しくは生前に亡くなるよりも前から御本山からいただく名です。

法名とは浄土真宗で使われる名で、「阿弥陀様の仏法に出あい、法の中で生き、仏弟子の一味になったことを表明する名のり」です。

戒名も似たような意味なのですが、主に真宗以外で使われる名で、「仏法に出あい、戒律を受け、戒律を守る誓いをした仏弟子の一味になった名のり」です。

ですので繰り返しますが、仏教徒または真宗徒であるならば、戒名または法名が必要になってきます。

もしもあなたがキリスト教徒や神道の方であるならば、戒名や法名は不要となります。仏弟子ではないのですから。

ちなみに現代の日本では90%以上が仏教形式の葬儀、約2%ずつがキリスト教・神道の葬儀となっています。仏教形式のお勤め(葬儀式)をするのであれば、仏法をいただいている身を表す法名が必要となります。

法名は必要です。

できれば生前にいただきましょう。

法名をいただくのにお金は必要なのか。

少しややこしい話になるので、最初に単純な結論を示しておきます。

お金は必要です

生前の帰敬式には一万円が申し込み費用となります。

法名とは生きている時に御本山からいただくものです。

法名をいただくというのは仏弟子の仲間入りを表明することですので、御本山のご門主様より「帰敬式(ききょうしき)」という式をします。「おかみそり」とも言われご門主様が剃刀の刃を頭に当てた後に法名を授与してくれます。

宗派によって金額は異なるでしょうが興正派(本山興正寺)・本願寺派(本山西本願寺)・大谷派(本山真宗本廟)では一万円が帰敬式の申し込み費用になります。

生前法名をいただくのには一万円が必要です。


 

ではちょっと話を変えてみますね。

私は葬儀のトラブル話で『お坊さんが法名料金に20万円を要求してきた。』と聞いたことがあります。

当事者同士でないと詳細なやり取りは分からないのですが、その20万円はもしかすると葬儀の際のお坊さんへのお布施の目安を言われたのではないでしょうか。

真宗の葬儀では生前に法名をいただいていない人のために、檀那寺の僧侶がおかみそりを式の途中で棺の前で行います。本当ならば故人が生前に御本山からいただいておくべき名なのですが、いただいていない人のために本山のご門主様に代わって檀那寺の僧侶が法名を授けているのです。

法名は仏式の葬儀式をするのに必要で必ず名づけるので、法名をつけたことで何十万もいただきますよと言うのはあり得ないと思います。

通常はお坊さんへのお布施の中に包括されていると思います。
20万円なら、枕(臨終勤行)の時から通夜そして葬儀式、火屋勤行、還骨勤行などへの法施へのお礼としての財施の金額だと思います。

葬儀で法名を名付けたことで何十万もお金を要求することはないはずです。

院号の必要性。

これも先に結論を言っておきます。

院号は不要です。

もう少し正確に言うなら、求めるものではないです。

院号とは贈られるものです。

院号そのものの起源は古いのですが、お寺に関する院号の由来はお寺(寺院)の建立や興隆に貢献をした人物に贈られる名でした。

ですので在家信者で法名に院号が付与されている人はお寺に多大な貢献をしていただいた方で、お寺の代表者(住職)がその方に贈与さしていただいた感謝の形でした。

ですので昔は一般門信徒で院号を与えられることは名誉なことであり、誰でも名付けられるものではありませんでした。

それが今では院号というのが当たり前みたいになって、家族や親戚・近所で院号を持っている人がいれば私にも院号があって然るべきみたいな不思議な状況になっていたり、お坊さんの方も院号を特別に名付けることに多額の金銭を要求する人が現れたりと無茶苦茶なことになっています。

繰り返しますが、院号とは貰うものでなく、名付ける側からの贈らさしていただくものです。

ですので院号のことを「贈院号(ぞういんごう)」と表現されることもあります。


ちょっとここで話すとまたややこしくなるので、内容には触れませんが、浄土真宗では浄土往生には院号の有り無しで左右されるものではありません。阿弥陀仏の名号を受持し、信心をいただくことが何よりも大切なのです。

院号をいただくのにお金は必要なのか。

必要です。お返しです。

それは真宗のお坊さんも同じことです。

お坊さんの私も法名は「釈克啓(かっけい)」と非常にシンプルな名でありこれで十分なのです。

住職の法名もシンプルです。

しかし住職が亡くなり葬儀式をするときにはおそらく御本山から院号が贈られるでしょう(贈院号)。たぶんですよ。

御本山から院号が贈られてきたらそのお礼を本山にしなければなりません。

ここで一般の方が言う院号料が発生するのです。

例え勝手に贈られてきた名であってもそのお礼をするのが布施の形なので、本山から院号が贈られてきたら本山にお礼のお返しします。
先ほどのお寺に貢献した在家信者の方で、お寺より贈られてきた院号をいただいた方もまたお寺に院号のお礼をしていました。

院号は寺院に貢献があった人物に対しての感謝の形ですが、いただいたものにはお返しをしなければなりません。

それが今ではお金で自由に買える名前みたいになってしまっているから院号料という不思議なことになっているのです。


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さいごに。院号は本当に必要ですか。

院号とは求めるもの・貰うのではなく、与える側がさしていただく名です。

いただいたものには必ずお礼と言うのをしなければなりません。

それは檀家さんが檀那寺にするだけでなく、檀那寺の僧侶も御本山から院号が贈られてきたらお返しをしなければなりません。

院号があるから人よりもいいところに行けるわけではありませんよね。

院号をむやみやたらに求めるのは滑稽だと感じませんか。

私のお寺の住職の遺言の一つに院号は不要だとあります。

もしも御本山から贈院号があったとしても丁重にお返しするようにと言われています。

院号とは寺院の建立や復興や発展、そして仏法が広く興隆されることに貢献した方に対してのみ贈るので十分だと私は考えます。


自坊の過去帳を確認しますと院号をいただいている人は昔はほとんどいませんでした。

現在では当末寺でも年間の葬儀の内1割程度の家で院号を求めたりしています。院号を求める人に対してお寺の方から断ることはできないのですが、院号が真宗の考え方には不要であることも求める側は認識していただきたいです。

世の中には院号料に100万を超える金額を要求するお坊さんもいるそうです。

院号にはっきりした金額が定まるのも僧侶の私からすれば不思議な事なのですが、院号をいただく側は院号を本来いただくことをお寺にしてきたかを振り返ってみて、院号のお礼としてお寺に寄与していただけたら有り難いです。


 

それとこの院号不要の考えは一真宗僧侶の考えですので、お坊さんによっては全く考え方が異なっているかもしれないことも留意してください。

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