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小言念仏(落語)と、念仏者の愚痴を言う生活

浄土真宗僧侶のかっけいです。

落語には、小言念仏(こごとねんぶつ)というお題があります。

小言とは叱言(こごと)のことで、相手を咎めたり非難する・不満に思うことをつぶやくといった意味です。叱言(叱事)の当て字が、小言になったともいわれています。

小言念仏は上方落語の世帯念仏(しょたいねんぶつ)を、明治期に東京に移した演目とされます。

小言念仏を視聴した感想から、お念仏をする口と愚痴文句を言う口が同じことについて書きます。

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小言念仏(世帯念仏)のあらすじ

小言念仏・世帯念仏の動画は、youtubeでいくつか視聴できます。

有名なのは「柳家小三治の小言念仏」ですが、個人的には「桂米朝の世帯念仏」が面白いです。

動画時間も9分弱ですので、ちょっと見てはどうでしょうか。

落語のあらすじ(話の流れ)

ある人が、家のお仏壇前でお念仏をとなえている。

信心があるからお念仏をとなえているのではなく、毎朝仏壇の前に座って南無阿弥陀仏をしないと食事がまずいと、となえるのが習慣になっているようです。

念仏せんといかんなあという状態。

ナムアミダブ、ナムアミダブと口にしながら、

  • 花を変えたらどうだ
  • 埃がたまっとる仏壇を掃除しろ
  • 飯が焦げよるぞ
  • 今朝のおかずはなんだ、味噌汁の具は何だ
  • 昼の食事はなんだ

などと念仏をしながらの小言(愚痴・文句)が絶えません。

落語のオチは、念仏をとなえている主人がそばを通ったドジョウ屋を大声で止め、まけるように言え、大きいの取れと文句を言う。

そしてドジョウが鍋の中で暴れている様子を見て、笑いながら声高らかにナムアミダブと口にするところです。

小言念仏の意味

小言念仏

いってもいわなくてもよいような、取るに足らない小言をぶつぶつということのたとえ。

古来「南無阿弥陀仏」の六字の念仏も、ぶつぶつといった語呂合いで聞こえて、口やかましい不平や文句と受けとめられた。落語の「小言念仏」は、こうした光景を見事に写し取ったものといえる。

浄土宗大辞典より

浄土宗の辞典では、小言念仏のことを、取るに足らない小言をぶつぶついうことのたとえで説明しています。

しかし落語の小言念仏は、念仏をする人は仏様の前であっても、愚痴文句がやむことなく、さらには生き物をむやみに殺してはいけないという仏教の戒がありながら笑いつつ念仏している様子をうつしています。

念仏には信心が無くてもできる。仏教は通俗化していることを皮肉めいているように、私は感じます。

浄土真宗のお念仏

南無阿弥陀仏のお念仏とはなんだろうか。なぜ口にするのだろうか。

念仏を称えると私は仏になるのだろうか。愚痴や不平不満を言わなくなるのだろうか。

そんなことはないでしょう。

多くの人が勘違いしてるであろうことがあります。

南無阿弥陀仏と念仏を称えるから救われるのではないんですよ。また念仏しないと救われないわけでもありません。

愚痴や文句を言い、妬みや怒りや欲にまみれた私を救わずにいられない仏様(あみださま)が、南無阿弥陀仏の声となって私に向けられているのです。

お念仏は生活の一部であり、感謝・お礼の言葉なんですよ。

浄土真宗の法語に次のようなものがあります。

生活の中で念仏するのではなく念仏の上に生活がいとなまれる

  • 念仏したらどうなる。
  • 念仏したら健康になる。
  • 念仏すれば何が変わる。

念仏したら・すればと、念仏は「たられば」のはたらきではありません。

仏法・念仏はこの世をうまく生きるためのものではなく、世俗の生活をするこの私を救うはたらきの教えです。

念仏をしているにもかかわらず愚痴・不満・怒りの言葉がでて嘆くのではなく、文句しかいえないこの私がナムアミダブとお念仏をしているのをよろこぶのです。これが浄土真宗のお念仏です。


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お念仏する口と愚痴を言う口は同じ

私たちは世俗の中を生きています。当然、欲も妬みも嫉みも多いですし、愚痴の絶えない生活をします。

しかしそんな濁った心をもつ私を、仏様に向かわしてくださっているのがお念仏なのです。

お念仏の生活をよろこばれた浅原才市(あさはらさいち)という妙好人がいます。

はらがたつなら ねんぶつもうせ ぶつもこころで なむあみだぶつ

はらがたつなら ねんぶつもうせ ぶつもぶつぶつ なむあみだぶつ

才市の歌より

腹が立ち愚痴がでるときには,お念仏もまた一緒に出てきてくださる。それは仏様が,そんな愚痴ばかり言う私のためにお念仏を称えてくださっているからです。

腹が立ってぶつぶつ文句を言いたいときは,お念仏しましょう。なむあみだぶつ・あみだぶつ・ぶつ・ぶつぶつ……と。

それが念仏の生活をいただいた妙好人のすがたです。

仏様から信心をいただき、念仏をもうしていても、浅ましい私は素直に喜ぶことはできません。念仏を口にしていても、ちょっと振り向けば文句ばかりを言います。

この小言念仏・世帯念仏の落語は非常に面白いです。

一見すると、念仏をバカにしているように感じますが、見方を変えれば文句ばかりを言う生活の中に、仏様の呼び声が届いているようにも思えます。

もう一点、才市さんの歌を紹介します。

歩くのも、マンマ食べるのも、仕事をするのも、みなナムアミダブツ

才市の歌より

「小言念仏の主人公は、念仏の生活をしているのに、文句愚痴を言ったり生き物を殺すのを笑っていたりと、とても念仏者の生き方とはいえない」と、周りから見た人たちは思うでしょう。

しかし世俗に生きる私たちは、文句愚痴を言ったり生き物を殺す生活を必ずしてしまうんです。

念仏を称える口が愚痴を言う口になり、合掌する手が他を傷つける手になってしまうんです。仏を拝んでいてもその事実は変わりません。

南無阿弥陀仏の念仏は、煩悩の私が聖になる教えではありません。煩悩の私がそのまま仏様に願われているすがたが、お念仏をもうす口なのです。

愚痴の多い口が南無阿弥陀仏の念仏が出る口となり、南無阿弥陀仏の中で生活しています。そんなありがたいお話が落語の小言念仏だと、同じく愚痴ばかりの私は思いました。

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